「月世界旅行記」について

【はじめに】
黄金祭2026に今年も参加したので、その編集後記を書く。

youtu.be


編集後記は自己満足に考えたことを出力しているに過ぎない。

 


■素晴らしき日々について

 


MADについて書く前に、前提知識として「素晴らしき日々」の解説を簡単にしておく。
物語の登場人物としては、水上由岐、間宮卓司、高島ざくろ、橘希実香の4名を覚えておくことで概要は把握できる。

 

水上由岐:本好きの主人公格の少女。高島ざくろとたまに屋上で交流する仲。「シラノ・ド・ベルジュラック」という戯曲をざくろに貸す。


間宮卓司:悪い意味での主人公格。素晴らしき日々ではラスボスに当たる。高島ざくろの死を目撃したことを契機に精神が崩壊しカルトの教祖になっていく。


高島ざくろ:大人しい黒髪の少女。凄惨ないじめを受け、別の学校の少女を巻き込み飛び降り自殺を遂げる。


橘希実香:ざくろ同様クラスに馴染めず。覚醒した間宮卓司を崇拝し、カルト宗教の右腕となっていく。

 

登場人物の紹介でぼんやりと大枠が見えてきたかもしれないが、以下あらすじである。

 

あらすじ:

同級生の高島ざくろの自殺を目撃した間宮卓司は、狂気に陥っていく。続けて、別の生徒も同様の飛び降り自殺をしたことから、7月20日に終の空を迎え、世界が崩壊するという信仰に取りつかれ、学校の生徒を扇動し集団自殺をさせようと画策する。
卓司の中には確固たる理論があるが、水上由岐は卓司の異常な行動を止めるべく動き始めた。
卓司に加担し生徒を扇動する希実香、由岐とともに卓司に違和感を持ち、止めようとする若槻姉妹、全てを悟ったような不思議な生徒、音無彩名。
それぞれのキャラクターが思惑を持ちながら、世界が終わる日、7月20日は刻一刻と近づいていく。

 

このMADの視点はその中の登場人物、高島ざくろと水上由岐に焦点を当てている。
ここで前提として覚えて頂きたいのが、水上由岐に対して高島ざくろは淡い恋心を抱いている。
会話をしている中でこのMADのテーマともなる「シラノ・ド・ベルジュラック」という戯曲をざくろは由岐から借りて、物語のシラノのセリフを叫びながら死んでいく。

「月世界旅行記」は物語上は報われない高島ざくろを中心とした完全創作の戯曲である。MAD内に出てくるテキストは冒頭とラストを除き、全て自分で作成し物語の展開も作っている。

素晴らしき日々の序章“Down the Rabbit-Hole”でざくろは由岐の前に登場するが、そのざくろがどのような旅をしてきたかを想像しながら、作成した。

 


■戯曲


元々、戯曲をMAD化したいという構想はエドモン・ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」を読んだ時からあったが、形になったのは2026年の初めころからになる。
「シラノ・ド・ベルジュラック」についても簡単に解説をすると、
舞台はフランス、剣術家であり作家であり、理学者そして哲学者でもある万能の才人シラノ・ド・ベルジュラックを主人公としたお話である。
ちなみに架空ではなく、実在の人物である。

 

あらすじ:
才人シラノは鼻が大きいことをコンプレックスにしており、物語上は醜いという描写がされている。
そんなシラノはロクサーヌに恋心を抱きつつ、外見を気にするあまり恋心を打ち明けられないでいた。
ある日、ロクサーヌはシラノと同じ青年隊に所属するクリスチャンに一目ぼれしてしまう。
一方で当時は恋文、手紙で恋人同士は愛を確かめ合うのだが、クリスチャンは全くもって文才がなかった。
そして、ひょんなことからクリスチャンとシラノは出会い、クリスチャンの恋文の代筆をシラノがすることになったのだった。

 

戯曲と言えば、シェイクスピアが最も有名だと思うが、フランスも戯曲においては歴史がある。ちょうどシラノの生きる時代にモリエール、コルネイユ、ラシーヌの三大戯曲作家がいた。
「シラノ・ド・ベルジュラック」の最後の章を読めば、モリエールについてシラノが言及しているセリフが読めるだろう。
モリエールは「ドン・ジュアン」などの喜劇で有名な作家で、自身で書いた戯曲について自分で役を演じるまでして最後は舞台上で死んだと言う。
17世紀のものにも関わらず、「人間嫌い」「守銭奴」など、今でも楽しめるというのは恐ろしい普遍性ではないか。
そんなモリエールだが、シラノの作品を剽窃して、「スカパンの悪だくみ」を制作したという指摘がある。
しかし、当時は盗作や剽窃は至って普通のことであり特段咎めるものでもなかったようだ。
とすれば、自分のMADも17世紀の価値観で言えば、過去ほんの100年か200年前の物語をベースにして作るくらいでは
パクリなどと言われないのではないかという淡い期待のもとでこの作品を作っている。

 

今回、戯曲のテーマとして手本としたいと考えたのが、ゲーテの「ファウスト」となる。
「ファウスト」は上演不可能な戯曲と言われているが、それは第二部における多くのギリシャの神々や妖魔、ホムンクルスなど、古今東西のあらゆる伝承を総動員した壮大な叙事詩となっているためである。
ここで「ファウスト」がなぜ、ここまで後世に残っているのかを考えたときに一つに
世界を構成するあらゆる要素を体系的にまとめ、詩として残した作品が稀有だったことが挙げられるのではないか。
とすると、この形を拝借することでMADにおいての一つの普遍的な類型が作れるのではないかという結論に至った。

では、今回の作品はどの要素を総動員したか。文学である。
このMADの特性としてあらゆるオブジェクト、シーン、テキストが文学をベースとした作りで構成されている。
要はこの作品は「天空の少女」とするファウストが「シラノ・ド・ベルジュラック」というメフィストフェレスに連れられ、世界を旅していく物語となっている。

 


■叙事詩的、黙示録的


一点だけファウストと異なる部分がある。それはこの作品が叙事詩的ではなく、黙示録的であるということだ。
トーマス・マンの評論に「ゲーテとトルストイ」について書いたものがあるが、
これはゲーテとトルストイを「自然」とし、シラーとドストエフスキーを「精神」に区分する。
評論ではゲーテ、トルストイは生まれ持っての貴族的な自然な美があるとし、
この雄大な自然の美が生み出す壮大な叙事詩が彼らの持ち味とする。
逆にシラーとドストエフスキーにあるのは精神であり、この特性より生まれた作品を黙示録と表現する。
マンは抽象的な概念で説明しているが、これでは分かりにくいので私なりの理解で書くと以下である。

自然(叙事詩的):「スター・ウォーズ」「ガンダム」「ワンピース」
精神(黙示録的):「スタンド・バイ・ミー」「エヴァンゲリオン」「寄生獣」

 

叙事詩は壮大である。あらゆる人間の歴史から普遍を構成する物語である。
黙示録は深淵である。ある特定の人間から普遍の性質を探る物語である。

 

ここで注意いただきたいのはマンは決して、叙事詩を大衆的、黙示録をニッチと分別していないことだ。
文学で言えば、叙事詩が「アンナ・カレーニナ」、黙示録が「罪と罰」のような区分になると思うが、どちらもエンターテイメントとしての大衆性という括りにハマらない。あくまで、作者や物語の普遍的な特質を指す。

マンは叙事詩的な作品に憧れ、シラーやドストエフスキーではなく、ゲーテやトルストイを目指したいと考えていたと言う。


だが、作品を読んでいるとそれは本当なのかと疑いたくなるものもいくつかある。
もちろん哲学版ファウストと言うべき「魔の山」や「ブッデンブローク家の人々」「ヨセフとその兄弟」は叙事詩とも言えるが、一方で後述する「ヴェニスに死す」「トニオ・クレーゲル」などの短編はあからさまに黙示録的ではないか。
ということで、自分はドストエフスキーやマンのこれらの短編の方が性に合っているので、作品は黙示録的に作った。

 


【本編解説】

0 冒頭


■手記 


このMADの始まりは戯曲部分とは違い、少し現実に寄せた作りとしている。
戯曲部分は冒頭にある手記に記載のものであり、手記に触れるまでは現実の世界である。
手記というキーワードで関連付けたのは小デュマの「椿姫」である。
「椿姫」は娼婦マルグリット・ゴーティエの遺品整理の場面から始まる。
語り手は遺品の中よりアベ・プレヴォーの「マノン・レスコー」という小説にアルマンという名の男のサインがあることに気付く。
そして、アルマンと出会った語り手はマルグリット・ゴーティエとアルマンの物語を聞く。
その際に語り手はマルグリットの手記をアルマンより手渡される。
ここまでの展開をベースにして冒頭の部分は作成している。

 

 

■とあるMADのオマージュ


冒頭に一部、既視感を覚えた方もいるかもしれない。
その正体は2010年に朝奈氏が公開した「CantusFirMus」である。
天野月の「ゼロの調律」が使われているが、冒頭はヘンデルの「私を泣かせてください」がそのまま使われている。
今回のMADの冒頭はヘンデルに傾倒した作曲家、アルバート・ハリスの「ヘンデルの主題による変奏とフーガ」のメインテーマ。
朝奈氏のMADは「シラノ・ド・ベルジュラック」の本編のセリフを「素晴らしき日々」で改変したセリフを使っていたが、
このMADは原典のセリフをそのまま引用している。
つまり、2010年に自分が憧れた朝奈氏のMADに対して、

「CantusFirMus」
楽曲:原典 セリフ:原典より影響を受けたもの

「月世界旅行記」
楽曲:原典より影響をうけたもの セリフ:原典

の関係性となっている。冒頭パートの終わりもざくろの一枚カットで揃えている。

 


Ⅰ シラノ・ド・ベルジュラック について

■月世界旅行記


第一幕は17世紀にシラノ・ド・ベルジュラックが執筆した「月世界旅行記」をベースにしている。
元々の物語は素晴らしき日々の本編で語られる通り、詩人であり哲学者でもあり剣技も達人であったいわゆる万能の人、シラノ本人が主人公で月世界での体験を記したものである。


月世界に行く際、シラノは特殊な機械を作り上げ、体に牛の骨髄を塗って辿り着いた。(牛の骨髄が月に引き寄せられるという考え方が当時あった)
聖ヨハネ祭の前夜に奇跡的に月へ到着したのである。(新暦7/6、旧暦6/24付近)


この月世界旅行記を読めば分かるが、月の造形は無機質なクレーターだらけの水のない空間ではなくエデンの園のように動物も月に住む人間もいる不可思議な世界となっている。作品内では月の人間は四足歩行で歩くとされている。
そして、彼らは言葉ではなく音で会話をし、香りを食べて生きるため長寿であり、その香りの対価にソネットが必要なのである。

 

シラノは月世界の住人の様々な文化を目の当たりにする。例えば、月世界にある本は「音で読む本」である。
ページに文字はなく、音で本の内容を表現する。これは驚異の未来予知ではないだろうか。17世紀の人間が既にAudibleの登場を予感しているのだ。また、月世界では若人を年寄りが敬うという逆転現象が起きている。理由はある程度の年齢に達すると能力も衰え、若人と逆転していくと考えられているからだ。
その他にも戦争は必ず両者の力が均衡していないと不公平で認められないという考え方、キャベツは生命と言えるのか等の様々な哲学的な議論が展開される。
これは恐らくシラノ自身の合理的な意見も含まれている。基本的な月世界の考え方はシラノが持つ考えのアウトプットだ。

 

シラノは理学者でもあり、無神論者にも近い考え方を持っている。
当時は既にガリレオによる地動説も確立し、旧態依然とした天動説ではなく地動説が月世界旅行記でも語られている。
また、更に直接的な表現として後述するエデンの園を案内した預言者エリヤに暴言を吐き、追い出されてしまう。

 


■飛行機乗りの話

月世界旅行記では、様々な伝説上の人物が登場する。一人は預言者エリヤ、二人目はエノクである。
エノクは旧約聖書の創世記に記載があり、人類最初の殺人者であるカインの子である。
このエノクは記述上は死について言及されておらず、「神に連れられて行った」とされている。
そのため、今回の第一幕においてもエノク同様の人物をカスタマイズさせて登場させたいと考えた。

 

ここで登場するのが、ざくろが水平線の果てに見る飛行機乗りである。
この飛行機乗りは1944年に第二次世界大戦の偵察飛行中に失踪した。彼は飛行機乗りであると同時に文学者でもあった。
このフランス人は、アエロポステル(現エールフランスに承継)という航空郵便の会社に勤めており、その時の経験を経て「夜間飛行」「南方郵便機」「人間の土地」を書いている。
一番有名な作品は上記の作品を統合し、寓話化した「星の王子様」だろう。


彼はある時はサハラ砂漠に墜落し、飲まず食わずで放浪し救出された。多くの飛行機仲間を失ったこともある。彼の飛行機仲間のギヨメはアンデス山脈で不時着し、凍傷になりながらも二日間山の中を歩き救出されたという逸話もある。
そんな中で描かれた彼の作品は必ず生と死が限りなく接近する。その上で深い孤独や静謐さを感じるのである。

 

そもそもの郵便機という概念が分かりにくいと思われるので、少し解説を挟む。
現在はエアメールなど旅客機とも提携して輸送することが出来るが、20世紀初頭は郵便専用の郵便機が活躍した。手紙等の郵便物を送り届けるため、二人乗りの飛行機を利用していた。通常は操縦士と無線等のアシスト用の通信士が同乗する。
しかし、当時の郵便機での運搬は常に墜落の可能性があり、紛争区域の上空を飛ぶ際は撃ち落されることもあった。
例えば、「夜間飛行」はどんな作品かというと出来るだけ多くの郵便機を飛ばすために夜間も運行していた当時のエアロポステルの支配人の話である。
当時の技術で夜間の完全な暗闇の中で郵便機を飛ばすというのは命がけで、墜落の危険や嵐に当たる可能性も多大にあった。
そんな孤独な暗闇の中で、かつての郵便機の操縦士は手紙を送り届けていた。

 

「南方郵便機」に以下の記載がある。

 

”地上の君の最後の足跡は、ここにしるされたのであったか?ともすれば、ここが物質界の果てかもしれないのだ。地はここに果て、ここから月かげの世界が始まる。現実が現実でない月影の世界が。”

 

彼の友人であったジャック・ベルニスは小屯所から飛び立ち、二度と目的地に着陸することはなかった。

 

2000年にサン・テグジュペリの飛行機の残骸が海から発見されたと言うが、これが物質界の果てに残された最後の物であり、彼は遠い月の世界へ向かっていったのかもしれない。彼の妻コンスエロは「彼はどこかの星で星の王子さまのところに行ったのだ」と言う。
これも素晴らしき日々で示されていた「世界の限界」の一つではないか。

 


■ソクラテスの悪魔



この怪人物は「月世界旅行記」に登場するシラノを助ける精霊のような存在である。
シラノが多大に影響を受けた哲学者のガッサンディ、加えて「ファウスト」の主人公であるファウスト博士、もちろんソクラテスまで様々な人類史上の知識人に対して知恵を授けてきた太陽生まれの超越者だ。

シラノは完全なオリジナルでこの精霊を作ったのではなく、元ネタはソクラテスの逸話の中にある「頭の中でデーモンが囁く」という話がモチーフとなっている。
「ソクラテスの悪魔」は訳者によって様々な訳があるが、「月世界への航海」では悪魔、「日月世界旅行記」では魔神とされている。
今回は魔神という語感が、MADで登場させる音無彩名の不気味さ、悪意のようなものが排除されてしまうため、より性質が近い「悪魔」とした。

 



■太陽世界

太陽世界旅行は月世界旅行と対になるシラノの作品で、「太陽諸国諸帝国」というタイトルで出版された。

今度は月ではなく、シラノが太陽を旅するという物語でシラノの想像力には圧倒される。
作品自体は不自然にページが途切れ終わっていることから未完とされているが、
月世界にはない多くの面白いモチーフが存在する。

例えば、太陽には鳥の国がある。
鳥の国ではシラノは鳥に捕まり、鳥たちは人間を憎んでいるという背景があり、シラノは鳥による裁判を受けることになる。
その時、鳥の中で味方をしてくれたのがオウムのセザールとカササギだった。
第三幕で登場するオウムとカササギは鳥の国でシラノを助けた二種類の鳥を表している。
この鳥たちが今度はざくろの旅を助けることになるのである。
また、ルネサンスの頃のイタリアの哲学者トンマーゾ・カンパネッラが太陽世界では案内人となり、サラマンドラとレモラの戦い、寓意の河などこちらも月世界に劣らず哲学的な内容を含む。


ちなみにシラノの「太陽諸国諸帝国」を書いた時期に丁度、デカルトが亡くなったこともあり、この太陽世界の最後は亡くなったデカルトに出会うところで閉じられている。

 

 

■手紙

素晴らしき日々の水上由岐と高島ざくろの関係は、「シラノ・ド・ベルジュラック」においてのシラノとロクサーヌに近い関係でもある。
ネタバレ回避の観点で言えば、「ざくろが見ている由岐は実は由岐ではないが、由岐である」という禅問答のような回答となる。
すかぢ氏が素晴らしき日々でやっていることは、手紙の持つ世界の共有という性質を人間に置き換えて物語を作り替えたのだと理解している。

ロクサーヌがクリスチャンに恋をしたのはシラノの手紙に恋をしたからだ。つまりシラノの手紙が世界を共有し、その世界に恋をしたと考えられる。

手紙はあくまで世界共有の手段であり、普通の言語も形を変えた手紙とも捉えることが出来る。

ざくろは由岐が第二幕で書いた手紙を受け取り、由岐に会いに行くことを決意するのである。

 


Ⅱ 水上の猫街、コオロギの郵便屋 について

 

■猫とともに去りぬ


第二幕で本編に全く出てこないヴェニスの風景が出てきて、驚いた方も多かったと思う。
この第二幕の舞台および登場人物は、素晴らしき日々で水上由岐が読んでいる「猫とともに去りぬ」からの引用となる。
「猫とともに去りぬ」はジャン二・ロダーリの童話集であり、イタリアを舞台にしたオリジナルの童話が収録される。
タイトルも「風とともに去りぬ」のオマージュだが、ロダーリの遊び心を感じる。
今回の第二幕で採用したのは以下のお話。
「猫とともに去りぬ」 猫(アントニオ)
「チヴィタヴェッキアの郵便配達人」 コオロギ
「ヴェネツィアを救え あるいは 魚になるのがいちばんだ」 ヴェネツィア
その上で各童話の設定を利用しながら、素晴らしき日々にて発生する一連の事件とリンクするような形で創作している。
原作を読んだうえでこの第二幕を見て頂けると展開なども既視感があり楽しめる。

 

また、「猫とともに去りぬ」以外の要素で芥川龍之介の「竜」、宇治拾遺物語の「卒塔婆の血」より一部借用がある。
水没というシナリオは後述の「ヴェニスに死す」の"コレラ"を水没にアレンジしたものだが、
その水没に至る原因として「卒塔婆の血」を利用している。
この話は、卒塔婆に血が付くと津波が来るという話をする老婆を揶揄うためにある若者がわざと血を付けたところ
本当に村に津波が来たという話で、いわゆる「嘘から出た誠」の典型例である。
芥川はこの逸話を利用し「竜」を書いたが、この時の群衆の構造は素晴らしき日々で、
間宮卓司の信仰を信じるクラスメイトを表しているようである。

 


■ヴェニスに死す



トーマス・マン原作、ヴィスコンティ監督の「ヴェニスに死す」がヒットしてから半世紀経つ。
この二幕は登場人物は「猫と共に去りぬ」に依存している一方で、筋書きはトーマス・マンを下敷きとする。
ここでトーマス・マンを意識した題材にしたのは、一つに敬愛する宮崎駿監督の「風立ちぬ」がトーマス・マンの「魔の山」に
大きな影響を受けており、では、こちらは「ヴェニスに死す」を下敷きにしたものを作ろうと考えたためだ。

「ヴェニスに死す」はグスタフ・フォン・アッシェンバッハという世界的な文学作家がヴェニスのリド島に休養時に
ポーランド人のタッジオという少年を見かけて魅了され、滞在を延ばしている間に街がコレラに汚染されアッシェンバッハも罹患して死ぬという話である。
この話で特徴的なことはアッシェンバッハとタッジオは一度も会話をしないことである。あくまでお互いには認識しつつも最後まで交わらない。
ここにトーマス・マンの芸術家と自然による美への態度が象徴されている。
マンの極めてよく似た作品に「トニオ・クレーゲル」という作品がある。

これらの作品には、芸術家と自然による美(非芸術家)は交わるべきではないという主張が内包されている。
理由として自然による美(非芸術家)が芸術家に交わることで、美が消滅することを予見しているためだ。
この考え方と同様の思想としてオスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」があると考えている。
ドリアンが破滅に至ったのは、メフィストフェレスであったヘンリー卿も要因ではあるが、元を辿るとバジルの絵が原因であり、自然による美(非芸術家)が芸術と交わったことにより損なわれたのが理由である。

二幕に出てくるアントニオという名の猫は、かつてのアッシェンバッハでありトニオ・クレーゲルでもある。
彼は水上由岐と高島ざくろの関係性に自己を重ねて見ている。
素晴らしき日々の本編がそうであったかは議論の余地があるが、由岐を芸術家と捉えるのであれば、ざくろは自然による美(非芸術家)であり、由岐を魅了した。
アントニオはこの関係性に対し、警鐘を鳴らしたうえで別手段として、
芸術家における世界の共有という意味で「手紙」を提案するのである。

 

■薔薇色の扉

由岐は、ざくろを追いかけて一つの薔薇色の扉を見出す。
この薔薇色の扉は多くのモチーフを象徴しているが、大きくは「狭き門」「掟の門」である。

 

マタイによる福音書 7:13 
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。

 

この記載を引用し、プロテスタントであったアンドレ・ジッドは「狭き門」を書き上げたが、これは単純な宗教的な記載としての意味以上のものがあるのではないかと思う。
人は一人ずつが狭き門を通り、狭き道を歩き、生を全うする。そこには他者が入る二人分の道幅は残されていないのではないか。
狭き門は水上由岐にとっては救いの道である一方で、既にざくろが向かうその道を通ることが出来ないのである。
夜間に飛ぶ郵便機がそれぞれ、完全な孤独であるように人は最後まで一機の郵便機のコックピットより、他のコックピットを見て無線機で互いに交信をしている。とすれば、これが因果交流電灯の明滅ではないか。

そして、この門は性質の悪いことに水上由岐のためだけに開かれている門である。
この門を通っていい者は水上由岐のみなのだが、この門を通ろうとすると不可思議なことに毛皮の外套を着た門番は彼女が通ることを止めようとするのである。

門を通ることが出来ない彼女は、最後に二人の男に自身の罪がなんであったかも何も知らされず処刑される。
それはアッシェンバッハがコレラで死んだように、ヴェネツィアと共に街ごと消えていく最大の不条理を示したものである。
郵便機が見た”疾病の街”はアルジェリアのオランをイメージしたが、この沈みゆくヴェネツィアも不条理という観点では疾病の街と言えるかもしれない。

門の造形イメージとしてはテォフィール・ゴーティエの下記の詩を元とした。

「七宝とカメオ」
Variations sur le Carnaval de Venise より

小舟は岸につき、錨索を
 杭に投げかけ、わたしを降ろす
  薔薇色の玄関の前、
   階段の大理石の上に。

ドリアン・グレイはこの詩集を読み、
”リド島に向かってゴンドラを漕ぎだすとき、そのあとに残るあのトルコ玉のような青さの直線のように見えて来るのだった”と感銘を受ける。
作者のワイルドがゴーティエに影響を受けていることは分かりやすいが、マンの「ヴェニスに死す」の舞台となったリド島に関しての言及があることが面白い。

 

 

Ⅲ 船出の日、ウサギ穴からの帰還 について

 

■冒頭


この幕は、高島ざくろが水上由岐の手紙を受け取り、地球へ還るまでの道程を表す。
ただ、第三幕の意図として、ここで描いている高島ざくろは素晴らしき日々の登場人物というだけでなく、
過去にあったあらゆる人物を象徴する存在として描きたいという意図があった。
つまり、彼女は「椿姫」のマルグリット・ゴーティエであり、「貧しき人々」のマカール・ジェーヴシキン、あるいは「狭き門」のアリサでもある。
この物語の登場人物は皆、手紙をお互いの世界の共有のために使っていたが、全員が報われずに悲劇として幕を下ろす。
しかし、ここで描く高島ざくろは受け取った手紙の送り主に会いに行くために自ら行動を起こし、運命に立ち向かう。

 

また、別の見方をすれば、彼女は異世界より元いた世界へ還りたいと考える少女かもしれない。
その見方をすれば、彼女はルイス・キャロルのアリスであり、ライマン・フランク・ボームの「オズの魔法使い」ドロシーにも見える。

この象徴的に普遍化されたざくろ像は、想い人のために強い意志を持って帰還しようとする人間を表している。

 

 

■船出

「時は満ちた」とシラノが言う通り、7/7の聖ヨハネ祭が近づいているのである。
聖ヨハネ前夜にシラノは月へ到達した通り、月から地球へ帰還する際も聖ヨハネ前夜の空気力学(重力)が変位する日を目掛けて、ウサギ穴へ旅立つという設定としている。

 

旅立ちが船なのは、バイロンの「チャイルド・ハロルドの巡礼」の船出の章より想像した。

 

さらば、さらば!わが故郷の岸よ、青い波間に消えゆく。

夜風はため息をつき、波濤は轟き、海鳥は物悲しく叫ぶ。

海に沈むあの太陽の後を我々は追いかけてゆくのだ。

しばしの別れだ、太陽よ、故郷よ、わが祖国よ、おやすみなさい!

 

ざくろの船出はこの逆で、故郷である地球に帰るために海から昇る太陽を追いかけて進むのである。

 


■小さなロクサーヌ


「シラノ・ド・ベルジュラック」の名場面として、ロクサーヌが戦場までクリスチャンに会いに来るシーンが挙げられる。
シラノとクリスチャンは青年隊に所属していたが、アラスの包囲攻撃に派遣されてしまうのである。
砲弾渦巻く戦地の中、空腹で体力を消耗する青年隊に対して、ロクサーヌは馬車を飛ばし馴染の料理人を引き連れて颯爽と登場する。
敵兵のスペイン人に行き先を問われても「恋人に会いに行く」と言い、切り抜けていく。
陣地に到着したロクサーヌは、隊員に食糧やワインを振る舞い勇気づける。

この行動が結果的にクリスチャンの死を目撃してしまうという別の悲劇を生むのだが、
ロクサーヌを何よりも魅力的なキャラクターとしているのが、恋人のために戦地まで来てしまうというその行動力だ。
それまでのフランス小説で言えば、スタンダール「赤と黒」のレナール夫人を始め、先のマルグリット・ゴーティエ、「マノン・レスコー」のマノンと奔放な側面はあるものの恋人のために自ら乗り込んでくるという精神性を持った人物がいただろうか。

シラノが「小さなロクサーヌ」とざくろを呼ぶのは、ざくろも同じような大志を抱き、
想い人に自ら会いに行こうと行動するからである。

 


■帰還


「現世巡礼交響曲」の時から、異世界からの帰還を描きたいと考えていた。
前作は死から銀河鉄道による帰還としたが、今回は別の方法を考えたかった。
また、原典となる「月世界旅行記」はシラノの月世界から地球への帰還をかなりあっさりと終わらせていて、
一から別のベースで考える必要があった。(原典は「ソクラテスの悪魔に抱えられて地球まで飛び去った」というレベルの記載である)

帰還のモチーフとしては「オズの魔法使い」と「不思議の国のアリス/鏡の国のアリス」を参考としている。
理由としては、少女が異世界を旅する物語の原点であり、全て元の世界に帰還しているためである。
そのままの展開にはあまりしたくなかったため、それぞれ物語の結末をベースにするのではなく、始まりをベースにした。
(また、不思議なことにどの物語も始まりは壮大だが、終わりは簡素だったこともある)
分かりにくいので以下、例示とする。

 

「オズの魔法使い」
始まり:ハリケーンにより家ごと吹き飛ばされ、オズの東の国に着陸する ※採用
終わり:銀の靴を履いて、踵を三度鳴らして回る(グリンダより教えてもらう)

 

「不思議の国のアリス」
始まり:ウサギを追って、穴に落ちると不思議の国へ到着 ※採用
終わり:クイーンの命令でトランプがアリスに襲い掛かるところで目が覚める

 

「鏡の国のアリス」
始まり:暖炉の上にかかっている鏡を通り抜けて、鏡の国へ到着 ※採用
終わり:赤の女王を揺さぶると子猫に戻っていて目が覚める

 

この三つの物語を統合して、展開を作っている。
つまり、ざくろは各物語を逆走し、入り口から出ようとするのである。
この段階で案内人としてはシラノからソクラテスの悪魔に引き継がれるようにしている。
シラノは月世界を離れることはない。そうなると境界に存在するのは地球を行き来できるソクラテスの悪魔のみである。

ざくろは、ウサギの穴から上昇し、カンザスの竜巻に乗りながら、ソクラテスの悪魔が用意する鏡を通り抜けて帰還した。

帰還の際の竜巻についてはサン・テグジュペリの「人間の土地」を想像しながら作成した。
「人間の土地」ではサハラ砂漠での壮絶な体験が描かれている。
食料も水もなく永遠と彷徨う、すぐ隣には死がいる。その中で帰還への道をただ奇跡を信じて歩き続ける。

 


Ⅳ 全体


■これは一体何なのか?


芥川龍之介の作品に「藪の中」というものがある。
ある夫婦の夫が盗賊に殺された。殺された際の供述を聞くと妻、盗賊、死んだ夫とそれぞれの供述が矛盾するのである。
一方でどの供述もどこかしらの事実が混じっているように見えるのは確かで、これは各人の世界に対する認識が大きく異なることを証明する。

まさに素晴らしき日々もそのような作品である。とある一人の見た世界と別の一人の見た世界が異なる。
世界を作り上げるのは人の頭の中である。これが考え方の根底にある。

ということで、「藪の中」に倣い、ここまでの戯曲の正体はあえて正解を作らないでおいた。
このお話は捉えようによっては様々な解釈が出来る。
「高島ざくろが死ぬ前の妄想」
「高島ざくろの死後、表象を出力する体はなくなったが、不滅の意志が冒険をしていた」
「高島ざくろは死んでおらず、実は月へ到着していた」
「水上由岐が見ていた高島ざくろに関する夢だった」
「ある人物の頭の中にいる高島ざくろと水上由岐の物語であった」
いずれにせよ、この月世界旅行の手記には事象のみ提示されている。

素晴らしき日々は普遍的なテーマを扱う。人の世界に対する認識、人の生きる目的に対して物語を通してアンサーを伝える。
では、その話をそのまま映像化するだけで良いのか。それは表層だけの理解ではないのか?
そんな疑問が常につきまとっていた。結局、自分は戯曲というフォーマットを使って普遍的な映像を作りたかったのかもしれない。

 


■楽曲について

今回はクラシックギターの奏者として有名なyasu氏の演奏をお借りした。
yasu氏の音楽との出会いは20年以上前になる。
当時、フラッシュ全盛期の頃に「ハクシャクノテンシ」という映像があり、そのBGMとして使われていた。
https://www.youtube.com/watch?v=fif5NVCgGUI

天使は絶望して自死を考えている。そんな中でドラキュラらしくない伯爵が天使を励ますのだが、
その際に天使が伯爵に恋をし、希望を見出すときに流れるのが第一幕で利用していたテーマ曲だ。

シラノの登場は死を目前としたざくろにとっては希望である。

yasu氏は今は少し前に流行った「Ib」で楽曲を担当して有名になっているので、
Ibをプレイした方はそのメロディーラインに聞き覚えがあったのではないか。

 

■幕

幕ごとの舞台説明のデザインはそれぞれの幕に合わせて以下のデザインとしている。

第一幕:アール・ヌーヴォー

第二幕:アール・デコ

第三幕:バロック

 

第一幕は月世界を優雅に旅する構想から植物系を基調とし、第二幕はより象徴的でモダンな雰囲気を出すために幾何学模様中心、第三幕は帰還のための船旅を連想して動きのあるバロック形式とした。

 

また、各幕ごとの違いは実は国柄も関係している。

第一幕:フランスの作家で構成 シラノ、サン・テグジュペリ

第二幕:イタリア、ドイツ・チェコの作家で構成 ロダーリ、マン、カフカ

第三幕:イギリス、アメリカの作家で構成 キャロル、バイロン、ボーム

 

これはあまり意図してはいないのだが、不思議なことに第一幕はフランスらしいロマン主義的な映像、第二幕はドイツや中欧強めの難解な映像、第三幕は英米に象徴される冒険的な映像が結果的に完成した。

そう考えるとベースにする作家によって映像も図らず影響を与えられるというのは面白い結果ではないだろうか。

 

■エンドロール

これは戯曲であるため、上演される必要がある。

上演されるということは各配役を演じる俳優がいる。

俳優がいるのであれば、俳優と配役を紐づけなければならない。

 

アルベール・カミュが「シーシュポスの神話」で俳優について言及している文章がある。

カミュは俳優を不条理な人間とし、割り当てられた人間が劇の始まりに生まれて終わりに死ぬからだとする。例えば、シェイクスピアのハムレットを演じる場合にハムレットという人間は俳優の体を借りてしか、この世界に存在することが出来ない。

すなわち俳優が演じている間だけ、この世界にはハムレットが生きている、という状態になる。

この「月世界旅行記」の登場人物もこのMADの6分間の中でだけ生きて、終わりに死んで何もなくなっていく。

 

【その他雑多なあれこれ】

 

■フォーマット論

 

冒頭で「ファウスト」を手本としたと記載したが、この類型は遡るとダンテの「神曲」に行きつく。
「神曲」はダンテ自身が地獄や煉獄、天国を旅するというお話なのだが、この案内人としてダンテより遥か過去の詩人ヴェルギリウスが道案内を務める。
過去の偉人が現代の主人公の異世界旅を案内するというフォーマットは古今東西、名作に共通する普遍的なものである。


例えば、シラノの「月世界旅行」ではソクラテスの悪魔、「太陽世界旅行」では聖職者であり哲学者でもあったトンマーゾ・カンパネッラ、ヘミングウェイやダリなど案内人が沢山いる「ミッドナイトインパリ」、「風立ちぬ」のカプローニ。

フォーマットを取り出し、いかにオリジナルな要素を取り入れるかが、いい作品を作るための重要な要素だと考えている。
それは他の古典でもあるいは別分野のモチーフでも何でもいい。


例えば「終末系」の作品はあるが、「ゾンビによって滅びた世界」をフォーマットにしてしまうと一般的なゾンビ映画になるわけだが、
「滅びた世界」をフォーマットにすると幾らでも新しいものを組み合わせることが出来る。
そもそもの終末は旧約聖書の「ノアの箱舟」から始まり、ヨハネの黙示録、新約聖書の「審判」にも共通する普遍的なフォーマットである。
ノベルゲーとして大ヒットした「白昼夢の青写真」も見方を変えれば、「ノアの箱舟」を電脳世界で行い、人類の原罪を背負って死んだキリストをヒロインとしたら周りの人間はどう思考するかをシミュレートした作品のように見える。

つまり、良い作品を作るためには、具象的ではなく、いかに普遍的なフォーマットを取り出し、そのフォーマットに対してさらに普遍的なフォーマットを加えて、独創的な作品を作るかという遊びなのである。

 


■MADにおける普遍認識

 

哲学においては相対主義を忌避する傾向にある。一方で世の中は多様性、相対主義の時代である。
「みんな違って、みんないい」これは一見耳障りが良く、真理のようにも思えるかもしれないが、真理の追究を諦めるに等しい。
しかし、絶対的な真理を見つけることはさらに難しい。

では、何があるか?ここにカント以降の「普遍認識」という存在がある。
人間の価値観を会話や議論により擦り合わせていく。すると、ある程度の多数で普遍的に共通する認識があるという。
これを普遍認識と呼ぶ。この普遍認識は絶対ではないが、一定以上の確実性がある。

とすると、MADにも普遍認識は存在しないだろうか。
この普遍認識をMAD作者は一定数のMADを見て確立するとしたら、どうだろうか。
特定のデザインが良い、特定の動きが良い、特定のカメラワークが良い、特定の構成が良い、これはある程度の確からしさがある普遍認識と成りうるかもしれない。

 

しかし、このMADにおける普遍認識は場合によっては、たった10年程度の期間に作られた未検証の普遍認識かもしれない。

このMADは恐らく過去にあまりとられていない表現をとっている。
通常のMADは楽曲があり流れるような映像がつく。
文字で表現することは冗長とされ、映像として語るべき。画面が静止画で動かないのは問題外。画面転換はモーショングラフィックスを使いスムーズに。キャラクターは自然に動かそう。長すぎるMADは途中で飽きるためにシンプルに短く。曲は最大二曲が妥当。様々な暗黙の普遍認識が存在する。

 

「月世界旅行記」はそのような制約事項を全て無視している。
ほぼ全ての画面展開を文字で表現、画面は静止画。6分超え、曲は5曲を使用。
なぜ、この形式になったかと言えば、仮に戯曲をMADとして表現した場合に
最も自然で違和感がない構成が通常のMAD制約を全て破る構成だったからだ。

 

仮にもしこのMADがつまらないものだと感じたのであれば、それは普遍認識と同じ価値観を有し、やはり現在に築き上げられた普遍認識は正しかったという証明の一つの事例となるかもしれない。
一方でもし面白い、良いと感じてしまったのであれば、MADにおいて築き上げられた10~20年の普遍認識は必ずしも当てはまらず
新たな価値観の存在を予見するものである。

 


【おわりに】

直近で横浜美術館に今村紫紅の回顧展を見に行ってきた。
紫紅は新南画を切り開いた一人と言われているが35歳で夭折した。
その絵の構図はあまりに大胆であり、白抜きの部分を滝と表現したり、「大井川」の斬新な構図とインスピレーションの宝庫であった。
彼が生きていれば、横山大観や下村観山、竹内栖鳳のような日本画の最重要画家になっていたのではないか。
ちなみにサクラノ刻で言及される速水御舟も紫紅と同門の松本楓湖の安雅堂画塾に入塾しており、御舟にとって紫紅は兄弟子であり、初期は多大な影響を受けている。

 

そもそもの南画だが、明の時代に中国の南北で画家を分けた場合に、南で発達した山水画が日本に持ち込まれ、明治期に流行り消えていったという理解である。イメージは掛け軸に山の風景が描かれ、漢詩が添えられている絵を想像してほしい。
南画においては元々は文人画とも言われており、絵師が描くのではなく、哲人が描く絵である。
哲人の絵は添えられた文も非常に重要であり、絵が必ずしも全てではないという。

紫紅が大きく影響を受けた中に、富岡鉄斎がいる。
富岡鉄斎は自分を絵師としてではなく、哲人であると捉え、その過程で絵が出来ている。
他の画家の晩年が皆、力を失っていく中で富岡鉄斎だけは晩年になればなるほど絵の出来が良いと言われている。
これはいわゆる哲人の描く南画であるからだ。人の精神の成熟が絵に表れるからだ。
映像でも同様のことが言えるのではないかと私は思う。

 

そんな紫紅は紅児会という会を主宰し、後進に「僕は壊すから、君達建設してくれ給え」と言っていたようである。
紫紅はインドに渡り、死の2年前に「熱国之巻」という大作を完成させている。
これは長大な絵巻物であり、一般的な絵巻物の大半が日本内の歴史画や古典であった概念を覆し、現代の海外の風景を絵巻物としたものである。
紫紅はその他、将門図を描いたことで当時の尊王気風にあった師の松本楓湖を怒らせたりと常に破壊を繰り返していたように見える。

 

同様にフランスでは19世紀にマネが「草上の昼食」や「オランピア」を出し、当時の絵画の潮流を破壊した。
戯曲ではコルネイユが「ル・シッド」により三一致の法則を破壊したという。
破壊は言論からは成り立ちえない。別の作品を作ることで既存の概念を破壊する。
これからもそんなMADを作っていければと思う。

 

「ナイチンゲールの憂鬱」について

youtu.be

NGFに提出したサクラノ刻のMADについていつも通り、編集後記を書く。
最近はMADがほぼ自分の思想のアウトプットのため、作品作りとセットで編集後記も書くようにしている。
これは自分のためだが、この駄文を読んで誰かのMAD作りの参考ないしはDOMの解釈の一助になれば光栄である。

 

まず、このMADは、オスカーワイルド「ナイチンゲールとばら」とゴーゴリ「ディカーニカ近郷夜話 イワン・クパーラの前夜」をベースに自分の方で創作している物語となっており、正直言えば原作のサクラノ刻にはこのような描写は一切ない。


MADはある程度、原作に沿うものだとは思うのだが、原作の空気を逸脱しない範囲内で自分の夢小説のような映像を作るのも許されるはず、ということで作成し始めたMADである。


2024年1月に構想はしていたが、作業時間が取れず今年に入り急ピッチで完成させた。
ただし、内容としてサクラノ刻と全く関係ないストーリーを展開しているつもりはなく、曲がりなりにも自分の方で原作を読み砕いた上でサクラノ刻の心鈴、直哉、圭の関係性を象徴しながら作ったつもりである。

サクラノ刻は読了という前提で、以下に今回のMADの解説を記す。

 

 

象徴主義耽美派デカダンの関係について

①イギリス芸術の背景について
オスカー・ワイルドの思想「自然は芸術を模倣する」は、サクラノ刻のメインテーマの一つである。
では、ここに至るまでにはどのような背景があったのか、耽美派を象徴するこの言葉が形作られるまでにどんなメインストリームがあったのかは世紀末芸術と言われる象徴主義デカダンを語る上では外せないものだ。
今回のMADについて言えば、この耽美派デカダン象徴主義を意識しながら作った絵物語という形になるため、
前提として上記の考え方を解説しておきたい。

 

イギリスではラファエル前派の前は著名な芸術家としては肖像画家のヴァン・ダイクからゲインズバラ、ジョシュア・レノルズに代表されるアカデミック絵画、そして、風刺画家のウィリアム・ホガースおよびターナー、コンスタブルのような風景画家などの名前が挙がるが、象徴主義という文脈で考えると詩人であり画家であったウィリアム・ブレイクを外すことはできない。
ウィリアム・ブレイクは1757年生まれで18世紀末から19世紀初頭に活躍しているが、この画家が描くサタンなどの幻想は、イギリスのラファエル前派に大きく影響を与えたと考えられる。
その後、イギリスでは主流のアカデミー絵画に反旗を翻し、フランスのロマン主義同様にラファエル前派が誕生する。
このラファエル前に戻ろうという意味は言ってみれば、イタリアのラファエロを理想としそれ以外の絵画を認めないというアカデミーの風潮に反旗を翻すものである。
ジョン・ラスキンの思想に感銘を受けたこのラファエル前派第一世代は自然に美を見出していく。
その結果、ラファエル前派が向かった先は物語からの空想画である。例えば、アーサー王物語やシェイクスピアが代表格である。
空想画にイギリスの湖水地方の自然美が組み合わさったものをラファエル前派と捉えてもよいかもしれない。
ラファエル前派の第一世代としてはウィリアム・ホルマン・ハント、ダンテ・ゲイブリル・ロセッティ、ジョン・エヴァレット・ミレイが当たる。

 

「プロセルピナ」ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ


その後にラファエル前派の中心人物であったロセッティに憧れ、第二世代としてエドワード・バーン・ジョーンズウィリアム・モリスが活躍する時代に入る。

 

ウィリアム・モリス

 

「魔法にかけられるマーリン」 エドワード・バーン・ジョーンズ



この第二世代の二人による影響でアーツアンドクラフツ運動やイギリスの装飾芸術が発展していく。
そして、今回のMADの主役となるオスカー・ワイルドおよびオーブリー・ピアズリーが隆盛していくのである。

 

オスカー・ワイルド

 

オーブリー・ピアズリー

ワイルドとピアズリーの関係は物語作者と挿絵画家という関係になる。
元々、ワイルドの「サロメ」という戯曲の一場面についてピアズリーが絵を描き、
その絵を気に入ったワイルドがピアズリーに正式に挿絵を発注するという流れになった。
(ここは現代も勝手に作ったMAD作者のMADが公式に認められ、正式にPV依頼が来たという話とよく似ている)

ピアズリー自体は夭折の画家として知られているが、当初はバーン・ジョーンズ似の画家を求めていた出版業者のために「アーサー王の死」の挿絵を描くところからスタートする。その後に上記の経緯を経て、ワイルドのサロメの挿絵を描くことになる。
ここにバーン・ジョーンズやモリスなどの第二世代から流れていく装飾芸術に退廃的な様相が加えられ大成していく。

ピアズリーが参考にした画家としては、もう一人マクニール・ホイッスラーがいる。
ホイッスラーが依頼を受けてデザインしたピーコックルーム(孔雀の間)から強いインスピレーションを受け、サロメの挿絵の孔雀模様が描かれている。


ホイッスラーはラファエル前派の推進者であったジョン・ラスキンに手酷く批判を受け、訴訟に至ったという逸話があるが、ラスキンは「芸術は自然を模倣する」という基本思想なのでホイッスラーを受け入れられなかった。
しかし、ピアズリーはホイッスラーを受け入れたことに「自然は芸術を模倣する」という耽美主義が見えると言い切るのは飛躍だろうか。


②世紀末芸術について
世紀末にほぼ同時多発的に世界中で象徴主義という思想が発生した。
フランスでは詩においてボードレールを皮切りにマラルメ、絵画ではギュスターヴ・モローオディロン・ルドン、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、区分けによってはポール・ゴーギャンを含む場合もある。

「貧しき漁夫」 ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ


一方で、ドイツやオーストリアではユーゲントシュティールという装飾芸術からグスタフ・クリムト、フランツ・フォン・シュトゥック、ベルギーなどの北欧ではフェルナン・クノップフ、ジャン・デルヴィル、スイスではアルノルト・ベックリン、フェルディナンド・ホドラー、そしてイギリスの一連の流れを組み、オスカー・ワイルドとピアズリーが並び立つ。


余談だが、モローの教え子にアンリ・マティスジョルジュ・ルオーといったフォビスム、シュトゥックの教え子にパウル・クレーワシリー・カンディンスキーといった抽象芸術。
これは象徴主義の根幹の中に”見たまま”を絵に描くのではなく”見えたように”描くという思想が組み込まれていたに違いない。

シュールレアリスムアンドレ・ブルトンロートレアモン伯爵という導き手がいたのであれば、象徴主義はジョリス=カルル・ユイスマンス、ジャン・モレアスが導き手になるだろう。

 

しかし、この世紀末芸術にあたっては象徴主義の区分以外にもデカダン(退廃主義)というものも栄えた。


個人的にはこのデカダン象徴主義と別の括りにする考え方もあるが、ほぼ同系統のものと考えている。

結局、デカダン自体は退廃という名の通り、一般的には美しくない、醜い、不健全とされるものを美しいと見出す考えであるが、象徴主義の画家が「サロメ」をテーマにして描けば、デカダンになり、ギリシャ神話の美神をテーマにして描けば、それは耽美派から来る象徴主義になるわけで、画家の主義というより描かれた絵によって見た人間がどう区分けをするかだけの話のようにも感じる。

 

デカダンの起こり自体はエドガー・アラン・ポー怪奇小説から、ボードレール惡の華に始まり、キリスト教社会で抑圧された美への理想について、悪に惹かれるという人間の普遍的な本能が反発したようなものと捉えている。


日本で言えば、夢野久作の「ドグラ・マグラ」、澁澤龍彦の「サド侯爵」の翻訳、
その他はデルヴィル「スチュアート・メリル夫人の肖像」やシュトゥック「サロメ」を見れば一発で分かるはずだ。

 

サロメ」フランツ・フォン・シュトゥック

「ステュアート・メリル夫人の肖像」ジャン・デルヴィル

 

その上でこのデカダンに位置する詩人、画家として最も代表的な二人がまさにワイルドとピアズリーになるわけである。
長々と書いてきたが、結局はバーン・ジョーンズとモリスが作り上げたケルムスコット・プレスをベースに、ワイルドとピアズリーのデカダン的視点を加えた象徴主義コテコテのMADを作りたかったというのが結論だ。
この象徴主義耽美派デカダンが入り混じった中に、ワイルドも存在したはずだ。

 

ケルムスコット・プレス

サロメ挿絵」オーブリー・ピアズリー


■元とした物語の解説
今回のMADの参考とした物語についても解説を加える。

オスカー・ワイルドナイチンゲールとばら」
ワイルドはいくつか童話を残しているが、その中の一つ。


最も有名なものが「幸福の王子」でこちらはサクラノ詩からテーマとして語られている。サクラノ詩の中では幸福の王子が直哉を指し、燕が圭を指している。
サクラノ詩は燕が死ぬまでの幸福の王子の物語であり、サクラノ刻は燕が死んだ後にすべてを失った幸福の王子の物語と捉えている。

 

ナイチンゲールとばら」も幸福の王子同様に自己犠牲の物語となっている。

 

あらすじを以下に記載する。
------------------------------------------
ある若い学生が、一人の娘に恋をする。
彼が娘を踊りに誘ったところ、赤い薔薇を用意できれば一緒に踊ると言う。
学生は庭を探すが、赤い薔薇がないため、途方に暮れる。
その姿を見たナイチンゲールは学生の持つ「愛」に感動し、学生のために赤い薔薇を探し始める。
しかし、いくら探しても白と黄色の薔薇しかなく、ようやく探し当てた赤い薔薇もつぼみだった。
薔薇が言うに「冬の寒さが厳しく、血管が凍ったために血があれば赤い花を咲かせることが出来る」と……。
ナイチンゲールは自分の命を投げ出し、薔薇の棘を胸に突き刺し、血を捧げる。
ようやく薔薇が咲いた時に既にナイチンゲールは息絶えていたが、学生はナイチンゲールのおかげで薔薇を手に入れる。
そして、彼が赤い薔薇を娘に渡すと「薔薇はいらない。宝石の方がドレスに合う」と言い始める。
青年は怒ってしまい「愛など何の役にも立たない」と言って、立ち去るのである。
------------------------------------------
後味が悪く、読むと虚無感の強い話だが、ワイルドの耽美主義やデカダン思想が詰め込まれた童話の一つだ。


途中で学生がナイチンゲールの歌を聞き、「ナイチンゲールの歌には体系があるが、他の芸術家のように恰好ばかりで誠実さや誰かのために身を挺することもない」
と批評するシーンがあるのだが、その揶揄に関わらず確かにナイチンゲールという芸術家は彼のために命を懸けたのである。

 

 

ニコライ・ゴーゴリ「ディカーニカ近郷夜話 イワン・クパーラの前夜」

 

こちらはサクラノ刻の本編に出てきたムソルグスキー「禿山の一夜」のベースとなったエピソードとしても語られているものである。
恩田放哉は芸術にあたっての犠牲としていたが、原作の物語上は特には芸術に限定はしていない。読後感としては、奇談の一つという位置付けだ。
ゴーゴリロシア文学の中でもドストエフスキートルストイ前の世代に当たる。ロシア文学ではプーシキンと並び立つ祖である。
この他、「外套」や「鼻」も有名だが、全体として世を風刺した奇談・怪談という印象が強い。
「禿山の一夜」がこのイワン・クパーラの前夜をそのままベースとしたかは文献が見つけられなかったのだが、少なくともムソルグスキーが「イワン・クパーラの前夜」を題材としたオペラを計画しており、その時の情景にアレンジを加えたというのは確かである。

イワン・クパーラの前夜が何かということにも触れるが、これは「聖ヨハネ祭」の前夜を指す。
この聖ヨハネ祭は夏至祭も兼ねており、ワルプルギスの夜と同様にヨーロッパで不可思議なことが起きる夜とされている。
ワルプルギスの夜は5/1の前夜を指すのに対して、このイワン・クパーラの前夜は6/24の前夜を指す。

 

ワルプルギスの夜ゲーテの「ファウスト」にて有名だが、イワン・クパーラの前夜である夏至祭も様々な作品で利用されている。
例えば、有名なものはシェイクスピアの「真夏の夜の夢」が真っ先に挙がる。
その他はスタンダールカストロの尼」も夏至祭の夜にジュリオとエーレナは愛を誓う。(正確に言えば、こちらは聖ペテロ祭のため、6/29)
そして、素晴らしき日々に登場のシラノ・ド・ベルジュラック月世界旅行記」においてもシラノが月世界に飛び去った夜は聖ヨハネ祭の前夜なのである。

 

話が脱線したが、以下にあらすじを記載する。
------------------------------------------
あるところにぺトゥルーシャという貧乏な青年がいた。
その貧乏な青年がピドールカという少女に恋をする。
しかし、家が貧乏なペトゥルーシャとの結婚をピドールカの父は許さなかった。
そんなペトゥルーシャはイワン・クパーラの前夜にバサウリュークという怪人物に出会う。
バサウリュークは出自も仕事も何もかも謎に包まれている一方で妙に羽振りが良く、大金を使って遊び歩いている人物である。
教会からは彼は「悪魔の手先」とされて付き合うことを禁止されている。
ペトゥルーシャはそんなバサウリュークから「丘の上の花をとってこい」と命じられる。
彼が丘の上に行くと花をつけていない草の小さなつぼみが膨らみ始め、一輪だけパッと赤い花が咲く。
バサウリュークは花をとってきたペトゥルーシャにある妖女を引き合わせた。
妖女は「花を投げよ」とペトゥルーシャに命じて、その通りにすると花は宙にしばらく浮き、その後にある場所に落ちた。
その場所を掘ると宝箱が出てくるのだが、掘り出そうとすると宝箱は地面に沈んでしまう。
妖女は「手を血で染めなければ宝を得られない」と言い、白い布にくるまれた一人の少年の首を切れと合図をした。
葛藤したペトゥルーシャだったが、最後には妖女の言葉に乗ってしまい、少年の首を切ったが、布をとるとその少年は最愛のピドールカの弟イワーシだった。
彼はその血で手を染めて黄金を得ることが出来、ピドールカとの結婚をピドールカの父親から許してもらった。
その後のペトゥルーシャはイワン・クパーラの前夜のことを全て忘れてピドールカと暮らすが、徐々に人格が壊れていき廃人と化す。
最後、廃人と化したペトゥルーシャを救おうとしたピドールカが祈祷の老婆を連れて、イワン・クパーラの前夜に彼を訪問すると、
「全て思い出したぞ!」と彼は言って、その瞬間にイワーシの幻影が登場する。
驚いたピドールカが家の外に出ると、扉はぴったり締まり開けた時にはペトゥルーシャの姿はなく、化生の物がペトゥローを拉し去つたと噂されたのであった。
------------------------------------------


不思議な符合として、この物語でもピドールカはナイチンゲールの歌声のような唇と形容され、宝箱を指し示す花は薔薇を示すかのような赤い花とされている。
そして、ペトゥルーシャがつんだ花もイワン・クパーラの前夜に一輪だけ咲いたのである。


ファウスト」でもワルプルギスの夜に山の中から宝箱が光り出現するという記述があるが、特定の夜には魔性の宝が現れる。
全く、関連のないはずの複数の文学に共通的に表れるものこそ、象徴と言えるだろう。

 

 

■MADの構成と象徴について

 

心鈴は、小夜鳴鳥(ナイチンゲール)、直哉は薔薇を欲しがる学者の青年、
圭はイワン・クパーラの前夜にて魔女に生贄と捧げられるイワーシという少年を象徴する。
ワイルドとゴーゴリの本編はそれぞれ前述の通りだが、微妙に変更を加えている。

まず、「ナイチンゲールとばら」において本来、「血が必要だ」とナイチンゲールに要求するのは赤い薔薇である。
また、「イワン・クパーラの前夜」においてペトゥルーシャが金貨を手に入れるために犠牲としたのは自分ではなく、イワーシという少年である。
前者の物語は誘惑者が不在なため、ナイチンゲールは死ぬか死なないかという選択を迫られるのみである。
この葛藤は自己犠牲をするかしないかの命題だが、人生において多く選択を迫られるのは自己犠牲か他己犠牲かの二択である。
そのため、心鈴の葛藤を表現するために、サクラノ刻の本編で引用されていた「イワン・クパーラの前夜」をベースに改変している。
一方の「イワン・クパーラの前夜」の方は自己犠牲という観点はない。
他己犠牲により悪魔との契約に乗り金貨を手に入れたペトゥルーシャが悲惨な結末を迎えるのみだ。
こちらは他己犠牲をするか、しないかという観点に絞られて自己犠牲というキーワードは出てきていないのである。

 

ここでこの両話をサクラノ刻の人物に象徴させて、選択をさせた場合にどのような選択をとるかを考慮した作品を作りたいと考えた。
赤い薔薇は直哉にとって圭という燕を失い、埋まることがなくなってしまった空白である。
直哉は圭の死後、この赤い薔薇を求め続けていたが、手に入らなかったために暗い影を落とすことになる。これが直哉の苦悩である。
心鈴は直哉を端から見ているが、そこには明確な思慕がある。この直哉という青年を傍らで救いたいという感情を持つ。
彼女は、ナイチンゲールを見た学者の若者が呟いたように「歌(芸術)の才能」がある存在として描かれている。
ここで直哉の空白を埋める方法としては残酷な方法が二つ用意されている。

それが「直哉の心中にいる圭の像の抹殺」もしくは「自己の直哉への愛の抹殺」である。
もし、圭の首を刎ねて消し去り、心鈴が直哉を満たすという方向が存在するのであれば、それは心鈴との幸せな生活が待つ。
しかし、圭の首を刎ねずに生かし続けるのであれば、直哉は永劫に越えられない壁としての圭を意識し続けなければならない。
では、どうすればその空白を埋められるか、それは自己の直哉への愛を諦めて、芸術家として直哉の前に立ち、直哉自身の手で空白を取り戻してもらうことに他ならない。

 

モチーフとした誘惑者の魔女はそれぞれピアズリーの「タンホイザーウェヌス」「サロメ」からの引用だが、どちらも愛を象徴する。
愛を象徴する魔女は、愛を優先し、直哉が持つその他の感情を消し去れと心鈴を誘惑するのである。

 

心鈴にとっては圭の像は自己の師でもある。
ここで彼女の心境を考えると、心鈴は圭を抹殺することは恐らくできないと考えている。圭を抹殺するのであれば、自己を犠牲にする。
この物語で心鈴が出した結論は「ナイチンゲールとばら」のナイチンゲールに等しい行動をするであろうと。
そして、自己の愛を殺した心鈴は直哉の前に一人の芸術家として対峙するのである。

 

最後に「ナイチンゲールとばら」では青年はナイチンゲールに目もくれず、絶望して「愛などばからしい」という結論に至るが、
このMADでは青年はナイチンゲールに気が付いたという設定にしている。
(恐らく、サクラノ刻本編でもこの心鈴の献身に少なからず直哉が気付いたと信じたい)

 

■ルドンについて

本編に微妙に取り入れたルドンについても紹介したい。

オディロン・ルドンはフランスの象徴主義の中ではモロー、シャヴァンヌに続くエリートの位置に入る。ゴーギャンの下のナビ派の時代にはすでに崇拝の域に達し、ドニによる「セザンヌ礼賛」にて左側で聞いている偉い感じの爺がルドンである。

セザンヌ礼賛」モーリス・ドニ

このルドンは植物学者のアルマン・クラヴォーから影響を受けたり、版画家のロドルフ・ブレスダンを師として持つ。その上で風刺画家で花から人へのメタモルフォーゼを描いていたグランヴィルの影響ももろに受けて、不思議な植物を描き始めるのである。

その中に今回、引用した起源シリーズの目がついている花などがある。

日本で妖怪漫画でお馴染みの水木しげるもルドンからの影響を受けたと言われている。
確かに目玉おやじバックベアードの造形はまさしくルドンである。

ルドンは一般的に黒の時代と呼ばれる黒のみを使った時代と後半の色彩の時代というやたらカラフルな色調の時代とに分かれるが、後半の色彩の時代でも専ら花の絵が有名である。(「グラン・ブーケ」など三菱一号にあったりするが、見たことはないだろうか?)

ということで今回は心鈴を見つめる不気味な花という位置付けで持ってきたというわけである。

 

■文学、美術の時代整理

ほぼ、コラムのように読んで欲しい部分だが、文学や美術にも当然時代の流れがあり、世代がある。イギリスやフランスの文学者や画家の時代を少し整理してみると以下のようになる。(ついでに上で記載したロシア文学者も付け加える

 

1780年代生まれ スタンダール、アングル

1790年代生まれ ドラクロワプーシキン

1800年代生まれ ジョルジュ・サンドユーゴー、大デュマ、ゴーゴリ

1810年代生まれ クールベ、ゴーティエ、ショパンラスキン

1820年代生まれ ボードレール、モロー、シャヴァンヌ、ロセッティ、ミレイ

        ドストエフスキートルストイ

1830年代生まれ マネ、ドガ、モネ、ルノワール

        ホイッスラー、バーン・ジョーンズ、モリス、

1840年代生まれ マラルメ、ゾラ、セザンヌ、ルドン、ゴーギャン

1850年代生まれ ゴッホ、ワイルド、スーラ

1860年代生まれ ロートレックマティス、ロスタン

1870年代生まれ ピアズリー

 

イメージとしては、アングルやドラクロワはフランス絵画で見るとサクラノ刻でも名前が出てくるマネやモネ、ルノワールと比較するとかなりの先輩筋になる。

MADで考えてもらえると分かると思うが、40年前の先輩となるとほぼレジェンドである。一方でマラルメゴーギャンに交流があったことがサクラノ刻でも語られるが、このあたりは多少前後はするものの、ほぼ同世代である。

一方でゴッホゴーギャンと比較すると世代は分かれるが、ゴーギャン1840年代の後半、ゴッホ1850年代前半なのでかなり近い形になる。

 

よく自分のブログの象徴主義で名前が出てくるモローなどはロセッティやミレイなどのラファエル前派と同世代。ルドンはかなり下の1840年。間にはマネや今回のイギリス美術で言えば、バーン・ジョーンズやモリスが入ってくる形だ。

 

象徴詩で見るとボードレールマラルメは結構な年齢差があり、マネがボードレールより励まし(叱咤激励)の手紙をもらったという話があるが、ボードレールとマネは先輩と後輩の関係、一方のマネはマラルメにとっては先輩のような関係になる。

 

ほぼ、フランスの詩人から伝説的な扱いをされているボードレールだが、ボードレールからするとドラクロワは崇拝と言ってもいい伝説的存在の先輩で、ドラクロワショパンジョルジュ・サンドは同世代で仲良し三人組のような関係性である。

 

こう見ると単体でよく聞く名前の芸術家や文学者も我々と同じ先輩後輩、同期の関係性があり人間臭くやっていたと考えると身近に見えてこないだろうか。

 

繰り返すが、2世代離れると確実に一回り以上の年齢差があるので、前の世代は恐らくベテラン勢に見えたに違いない。3世代以上は、最早レジェンド格である。

ということでこの文学者と画家の世代間の先輩後輩関係を今のMADに当てはめるのも面白いかもしれない。

 


■おわりに ~象徴主義としてのMADについて~


古来よりあらゆる動植物を象徴として見出していた人間社会において、
象徴主義が馴染みやすかったのは当然の話だ。
この象徴主義も19世紀末は動植物あるいは神話、文学をベースにシンボルを取り入れていたが、
現代は無生物、人工物という枠に移行してまだ生き続けている。
(MADで鍵、鎖、鳥籠、机、鋏、ノート、手紙、ピアノなどの人工物を象徴的に使ったものは散見される)

直近ではコンテンポラリーアートの方向に進むMAD作者も中華系では流行っており、面白い時代になったと思う。

そのうち、マレーヴィチのように黒い画面だけでMADという人間やモンドリアンのような四角く区切った色だけでMADという人間も登場するかもしれない。

 

さらに最近で面白いのが、詩をテーマにして自己の意識内を映像化した「てへ氏」や前述のデカダンと1980年代日本をミックスした「皐月零氏」など、色々と新しいMADの形が生まれていることである。
そして、彼らが強いのが技術以外にも組み合わせる素材の発想である。

サヨナキドリを参考にMADを作った場合は、コマドリやヒタキのような似たようなMADになるわけだが、これが鳥鋼まで遡ればペリカンだったり、脊椎動物まで遡ればトラやゾウのようなまるで違うMADになる。
二次素材のさらに前の前を辿っていくことを心掛けていくことで様々な多彩なMADが生まれる。

 

その上で自分の指針だが、今後もロマン主義象徴主義の間のようなMADをこれからも作っていきたい。今回は文学と美術寄りだったが、基本的には哲学、宗教、文学、美術をミックスさせながら作りつつ、19世紀から20世紀初頭の空気感から大きく外れないような要素を取り入れる形を意識する。

 

この編集後記を書いている間もアール・デコのようなものやあるいは戯曲を組み合わせた物語風のMADを作っても面白いと色々と妄想している今日この頃である。

イギリスが終わったので、次はフランスか、そして最後に日本となり得るか。
発想が出続けている間は周りを気にせずに気ままに作っていきたいと思う。

「砂狼は、遠い砂漠の夢を見る」について

2025年もあっという間に終わる。
直近で「砂狼は、遠い砂漠の夢を見る」を投稿。いくつかメモを残す。

youtu.be



構想自体は2024年の夏頃、飛び飛びに作業した。

この記事を読んでいる人は、このMADを見てシロコの位置付けを理解しているか、
原作興味がなく、なぜ大晦日にこんなスライドショーを作っているのかということで数秒で再生を止め、作者の頭の中を覗きに来ているかの二択かと思われるので、最終章のネタバレを気にすることなく、記事を書いていく。


【シロコとは】
この砂狼シロコという愛すべき狼少女は、無表情寄りクール系な一方で天然系、激情系と魅力あふれるブルアカのメインポジションを張るキャラクターである。

1章も含めて、生い立ちは謎が残るものの、最終章のシナリオが公開されるまでは大したエピソードもなく、ポケモンで言えばピカチュウのようなキャラクターだった。

ピカチュウに重いエピソードがあったか、ピカチュウが家族や仲間を殺されて、ピカチュウの森を逃げ出してきた個体であれば、それは大層面白い話になったかもしれないが、ポケモンがそうはしなかったのは、ピカチュウにそのような役割を求めてきていなかったからだ。

要はシロコはそんな感じだったのである。


さて、そんなシロコだが、最終章に差し掛かると唐突にシロコテラーというシロコによく似た敵ポジションのキャラクターが現れる。
それが今回のMADでテーマにしているキャラクターである。

見ればわかるが、同一人物である。というか、顔の造形がほぼ同じなキャラは古今東西で大体は、別世界の自分か双子の兄弟か、クローンかの三択である。

ちなみにブルーアーカイブでは「別世界の自分」が正解である。

 

【シロコテラーを襲う悲劇】

ということで、本編で別世界の自分と敵対するわけだが、そもそも自分の延長のはずの存在が敵対してくるというのは異常事態であり、普通に考えれば意味が分からないことである。

バックトゥザフューチャーでマーティと未来のマーティが戦うようなもので、この字面だけ見ても混乱してくるだろう。

最終章では、なぜシロコテラーが敵対してきたかの背景が明かされる。ただ、理由は明確には明かされない。
シロコテラーが襲ってきたのは色彩に命じられて体の自由が利かなかったのか、同意した上で世界を壊そうとしてきたかで見ると後者であることは分かるが、
それ以上のことは読み手の想像に委ねられている部分である。

今回のMADでは、そんな読み手に依存するシロコの心情を勝手に想像しながら、映像化するという遊びである。


ここで掻い摘んでシロコテラーが敵対した背景について解説する。
まず、別世界のシロコを襲った悲劇を羅列する。

・仲間A(セリカ)が突如、失踪して戻らなくなる。※多分、既に死んでいる
・仲間B(アヤネ)が大怪我をして死ぬ。かつ、しばらくは生命維持装置で生かされていたが当時の仲間内で装置を切るかの判断がされたと想定される。
・仲間C(ノノミ)が自死する。韓国発祥のテキストでは「そうなった」と端的に記載されるが、自死スラングの様子。
・仲間D(ホシノ)がヘイローを破壊されて死ぬ。
・先生(主人公)が致命的な攻撃を受け、蘇生は不可能とニュースが流れる。


要はいきなり自分の周りの大切な人間が全員死んでいくという、えげつない話なのである。
想像してみて欲しい、現在自分の周りにいる唯一の友人や職場仲間、学校仲間が姿を消して戻らないことが確定する。普通のメンタルではやっていけない。

 

そんなこんなで上記の悲劇に遭ったシロコも流石にメンタルブレイクし、その絶望の過程で「色彩」に接触する。

 

ブルアカをやっていない人にも分かりやすく説明すると、「色彩」は一般的に言う神のような存在で、存在は定義されているが、意思を持っていないような恐怖や崇高や神秘などの概念を集めたようなものである。
チェンソーマンは読んでいないが、恐らく銃の悪魔とか闇の悪魔みたいな奴なのだろう(きっと)

 

この「色彩」も存在自体が凄まじく迷惑な存在で、接触したものの存在を変えるような奴である。
イメージで言えば、鋼の錬金術師でタッカーが、ニーナとアレキサンダーを勝手に融合して犬人間にしたり、最近で言えば呪術廻戦の真人が吉野を変形させて「ROUND2だ」と言っているシーンのようなことが起こる。

 

シロコテラーになった時間軸のシロコも同じような変化が起こり、存在が変化し通常世界の先生たちに敵対するようになる。

 

【理想的風景】

そんな背景で敵となってしまったシロコテラーの心情を考えると想像に難くない。
「元の世界に帰りたい」これが最も強い感情ではないか。

仲間全体が生きている、先生も生きている、毎日変わらない平和な日常が続く―

要は望郷の念である。

しかし、現実として一度破壊されたものが修復されることはなく、
自身としても戻ることは諦め、色彩に加担して別世界を破壊しにいく。
言ってみれば、ヤケクソである。

そのヤケクソをブチ当てられた別世界のシロコはたまったものではないわけだが、
シロコテラーに重なった悲劇の説明により、このヤケクソが中和されていい感じになっているのが最終章のシナリオだ。


ここで望郷の念を整理してみると、この望郷を少し難しく言い表すと「理想的風景」という言葉に言い表せる。
ピクチャレスク、ピトレスクというこの概念は17世紀のクロード・ロランより脈々と続く風景画のジャンルであり、その後にターナーやフリードリヒ、ユベール・ロベールなどロマン主義風景画の始祖ともいえる考え方である。

いやいや、よく分らんということで下のクロード・ロランの絵を見て欲しい。


タイトルは「シバ女王の乗船」

この空想のような感覚が伝わるだろうか?
シバ女王は旧約聖書まで遡るわけだが、この風景が現実的にあったかは分からない。
あくまで画家の中にある理想的な空想の風景を表したものである。

大体このクロード・ロランの頃の画家はイタリアへグランドツアーへ行き、
そのままイタリアへ定住して、ローマやギリシャ的な遺跡や風景に囲まれながら、
空想力を膨らませながら、絵を描いている。(流石に乱暴すぎるが…

クロード・ロランや二コラ・プッサンはイタリアで過ごしたが、出自はフランスなので
当然フランスにも理想的風景は伝わり、フランスとの交流があるイギリスにも伝わってくる。

そもそもカナレットのヴェネツィア風景画がイギリスで好評だったのも、
この手の風景に無縁だったイギリス人に受けたからだと思うのだが、
兎にも角にも現実の風景以上に自分の思う理想の風景に惹かれるのが人の性である。

フリードリヒのようなドイツでのロマン主義絵画は珍しいというか大体ゲーテの影響な気はするが、この国も含めて、フランス、イギリス、ドイツで17世紀-19世紀はロマン主義風景が流行ったのである。


さて、シロコテラーも理想的な風景を持ちつつも現実には真逆の過酷な風景が見えているわけで、これは単純に言ってしまえば上記のヴェネツィアに憧れたイギリス人やニンフばかり描いていたフランス人同様である。

このMADでは理想的風景は、映像見れば1mmくらいは伝わると思うのであえて解説しないが、一般的には無味乾燥で何もない砂嵐で荒廃した砂漠であっても、シロコテラーにとっては理想的風景だし、綺麗な街並みがあり緑豊かで活気のある未来都市であっても、現実の過酷な世界の象徴だったりする。

 

【世界の喪失】

スライドショー一つ作る上でも、話を一般化したいのがロマン主義の人間である。
自分は登場人物がその時にどう考えたか、どんな心情だったかを極限まで表すタイプの自然主義的な発想をしない。
なので、登場人物を象徴として捉えて、あらゆる人間に一般化しつつ分析するというタイプのMAD作りを心掛けている。

そういうわけでシロコテラーの感情を共通化して考えてみる。

先ほどはシロコテラーの感情を「望郷」と捉えたが、これを「世界の喪失」としてテキストで変換し、シロコテラーに降りかかる悲劇を「世界との敵対」として変換している。


では、「世界の喪失」とは何か。

我々が見ている世界は目を通して頭の中に形成されている世界である、この考え方がカントやショーペンハウア以降の主流な考え方になる。
ということで、シロコテラーが失ったものはホシノと出会いアビドスに入学してから仲間と過ごしてきた風景、これがそのままシロコテラーの「世界」になる。

これも分かりにくいので噛み砕いて説明するが、例えば一時期流行ったような
オンラインゲームの世界にダイブしてその世界を楽しむラノベを想像してほしい。

あれも結局は主人公の目から情報を読み取り頭の中に形成された世界を周りと共有しているものであり、自己の中に形成された世界と言えるだろう。


要はシロコテラーはアビドスに入学する前は廃人同然の心神喪失状態だったわけであり、アビドスでホシノよりマフラーを受け取った時からシロコテラーは周りの環境を認識できるようになり、世界が形成されたと考えられる。

そんなシロコテラーの世界は呆気なく、ブルアカのライターに粉砕されるわけである。


シロコテラーの「世界の喪失」は言ってみれば、「エデンの東」で有名なスタインベックの「怒りの葡萄」同様に限りない痛みを伴う。
怒りの葡萄」では「祖父はオクラホマの農場を離れた瞬間に死んでいた」というように世界の喪失は「死」と同様の苦しみである。

オクラホマの小作農や古くはモーセに連れられて約束の地を目指したヘブライ人のように「帰るべき世界」がない状況は過酷だ。

考えてもみれば、シロコテラーは別に敵シロコの時間軸のホシノやセリカなども人格的には同じなのだから、あちらで仲良くやればいいじゃないかと無慈悲な意見をすることも出来るが、シロコテラーが満足しないのは、そもそも自分が形成した世界ではないから嫌なのである。

これがシロコテラーの持つ感情として整理した。
だから、シロコテラーは同じような記憶や同じような人格を持つ仲間が出てきたところで、何一つ響くことはなく、自分が失った仲間が欲しく、言ってみれば自分が失った世界が欲しかったのだ。

 

【世界の敵対】

世界の敵対とは何を示すか、ということで二つの意味があると思う。

一つ目がシロコテラーが元々いた世界でのシロコテラーに対する世界の敵対。
これは、一連の悲劇のことを指す。

この悲劇は途中でカミュの「ペスト」からの一説を引用したが、
不条理による悲劇である。

19世紀以前は神の存在が深く信じられており、あらゆる悲劇は神もしくは悪神の怒りにより起こるものと捉えられてきた。考え方としてはそちらの方が救いがある。

神を敬えば悲劇は起こらないし、悪神を善神が倒せば悲劇も起きない、仮に現世で悲劇が起きても死後の神の世界では平穏が得られる…
なんと心の平穏が保たれることか。

だが、現実はそうはなっていないらしい、というのが19世紀以降の不条理思想である。
世界は不条理なので、理由もなく悲劇は起きる、理性というものが本当に正しいのか、神を介在しない悲劇にどう対処するのか。

シロコテラーが受けた世界からの敵対行為には理由がない、ただ事実としてシロコテラーの仲間は死に絶望が降りかかってくる。
そこに対してカミュは際限なく続く不条理の悲劇に対して抵抗しろ、と言った。これに抵抗できずに諦めたのがシロコテラーである。


二つ目がシロコテラーが破壊しようとした世界でのシロコテラーに対する世界の敵対。
これはホシノやブルアカメンバー総結集でシロコテラーとプレナパテスを袋叩きにした展開のことを指す。

あの戦闘自体は考えてみれば、シロコテラーが吹っ掛けた喧嘩とは言え、
キヴォトスの学園全体でシロコテラーに対して敵対して、ラストバトルでプレナパテスを10名以上のキャラが囲んで滅多打ちにしているのは見方によればシュールである。

この世界の敵対は世界の防衛反応と考えてよいだろう。
つまり、世界の防衛反応がホシノやブルアカメンバーを通してシロコテラーに降りかかったと捉えることが出来る。

現在、我々が生きている世界を分解すると銀河になり、地球になり、大陸になり、国になり、都市になり、家族になり、個人になる。
この個人の結集で出来ている概念を世界とするのであれば、当然に世界の反応は個人の意思の総結集となり、これがルソーが社会契約論で言うような一般意思に等しい。

世界がある特定の個人に敵対する場合は、人あるいは事象(悲劇)を経由して敵対する。そして、その敵対は条理(防衛)もあれば不条理(理由なし)もある。

スピノザの言葉を引用しているが、人は世界の様態であるとすれば、シロコテラーは異物なのでホシノたちに排除されたのである。

 

【世界を喪失し敵対したシロコ】

上記のような状況に陥ったシロコテラーは途方もなく孤独である。キヴォトスの中で一番孤独である。
元居た世界からは敵対され、世界自体を喪失。新たに破壊しようとした世界でも世界のあらゆる人間と敵対する。


夏目漱石の「行人」に以下の一節がある。
「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まることを知らない科学は、かつて我々に止まることを許してくれたことがない~
 人間全体が幾世紀かののちに到着すべき運命を、僕は僕一人で僕一代のうちに経過しなければならないから恐ろしい」

誰にも理解されず、誰も仲間がいないようなこの種の孤独を想像するとそれは恐ろしい。

パウロはキリストを知らぬ世代の中、キリストの教えを布教する際に限りない孤独を味わったと言う。

シロコテラーが元の世界に会えるのは自己の夢の世界、すなわち理想的風景の中だけなのだ。
その中で先生と会い、死んだ仲間と会う。これは限りなく幸福なことであり、限りなく苦しい。

もう戻らない世界を渇望して、シロコテラーは理に適っていないということを知りながらも「我ここに立つ」と世界と敵対するのである。

 

【おわりに】

2025年も今日で終わる。今年のMADMAXは過去一番に難解なMADが多かったと思う。
自分はそれは喜ばしいことだと考えている。

すなわちエンターテイメントであれば、MADではなくPVやMVでもいいわけで、
そうではないことに価値を見出す段階にステージが移ったことを意味するからである。

MAD作者は限りなく自己本位である。
そして、シロコテラー同じく孤独であってほしい。

なぜなら、自分と同じようなMADを作る人間がいれば、それは孤独ではない一方で
満たされてしまいMADを作らなくなる。
自分のフォロワーが増えても真似に過ぎず、本質は満たされていないため、孤独である。
本質は同じであってもアプローチが大きく違えば、それは孤独である。

つまり、どこまでいっても自己の作風において、我々は孤独であり、
その孤独な作風の相互理解や評価によって成り立っている。

AIが発達しても、この孤独という観念についてAIが理解することが来るのだろうか。
来ないまでのタイムラグがAIに勝てる唯一の勝機ではないか。

ということでシロコテラー同じく、孤独のススメということで、
2025年最後の記事を終わろうと思う。いずれ機会があればMADMAX2025の感想も書きたい。

 

【引用録】

注文の多い料理店 序」宮沢賢治

「ペスト」アルベール・カミュ

ヨハネの黙示録 14章」

「ぶどうの房のある花束」セラフィーヌ

「高丘親王航海記」澁澤龍彦

マルティン・ルター

超越的時間の黒猫と十字架の下の大鯨について

youtu.be

 

例によって、どんなことを考えながら作ったかメモに残しておく。

さくら、もゆ。の前提知識から入り、MADで意識した観点、その他のオマージュについての訳注を入れている。

 

1.さくら、もゆ。についての前提

(1)あらすじ

さくら、もゆ。の粗筋は以下。
主人公が住む参禅町では、“夜の国”という不思議な場所が存在した。
その場所は死者もしくは生者の夢が集まる煉獄のような場所で、猫と死者が同居する世界だ。
死者は次の輪廻に向かうまでの時間を“夜の国”で過ごす。
猫は死者の記憶や感情の売り買いをしていて、対価が次の輪廻に影響する。
“夜の国”のネガティブな存在として悪夢というものがある。
これは生者が現実世界で遭遇した悲劇により生まれたネガティブな感情の結晶で、
悪夢が生者の夢を侵食し飲み込むと生者は死ぬ。

物語は10年前にこの悪夢の中で特に巨大なもの、通称“夜の王”と戦った魔法少女にクローズされる。
魔法少女と言えど、一般的に人が思う魔法少女と異なり、この魔法はかなり万能である。
最早、世界改変と言ってよい。想像力の及ぶ範囲であればどんなことでも出来るし、どんな能力とすることも出来る。
しかし、一方で魔法の力に応じて魔法少女は代償を払わなければいけない。

更に、魔法は誰か魔法少女を使役する人間の許可が必要とか、
許可は出来ても人間でなければ、想像力を使うことが出来ずに上手く魔法が発動しないなど複雑な設定があるが、詳細は割愛する。

とりあえず、想像通りの世界改変を行うことが魔法であり、魔法には代償が必要ということだけ覚えておけば少なくとも全体の話の流れにはついていける。

本編はこの“夜の国”を巡って、“夜の王”と闘い禍根を残した魔法少女の10年後を描く物語だ。

 

(2)テーマ


さくら、もゆ。は長くて複雑と言われている一方で名作という評価も多い。
理由としては自分が考えるに幾つもの時代に共通するような普遍的な哲学的な死生観を扱った珍しい作品だからだと考えている。

では、普遍的なテーマとは何か。整理すると以下になると考えた。

①絶望とは何か、どのようにして人は絶望するのか、絶望から救われる方法はあるのか
②罪とは何か、罪を人はどのように意識するのか、罪から救われる方法はあるのか
③神とは何か、神はなぜ人を救わないのか、神は果たしているのか
④生きるとは何か、生まれることは良いことなのか、良いことであればどうなればよいと言えるのか
⑤時間とは何か、時間を超越する存在はあるのか、それはいったい何なのか

見て分かる通り、通常は一つのテーマで人が数世紀かかっても答えが出ないような話だ。
そもそも絶望が何かは感覚で理解はするが、あえて言葉にすることは難しいし、
世界になぜ宗教があるのか、人はなぜ生まれて死んでいくのか、目的はどこにあるのかは途方もない話である。

それを全て一つの物語に落とし込んでいるので、ノベルゲームの中でも
他のノベルゲームを凌駕する形で普遍的な作品になっている。


ここからは、さくら、もゆ。の各テーマについて書いていく。

 


(3)絶望について


さくら、もゆ。においての絶望の考え方は基本的にキルケゴールの定義と一致している。「自己が自己であろうと欲する」もしくは「自己が自己であろうと欲しない」ことに起因するものである。
簡単に言えば、物語の主人公は自己の理想となるヒーロー像がいるのだが、
そのヒーロー像である自己になれないことへの絶望がある。
全てのヒロインも基本的には何らかの今の自己ではない何者か、もしくは理想の世界があり、その世界に近づいていない現在の世界に対して絶望しているという解釈が出来る。

絶望は「死に至る病」とキルケゴールが表現しているが、
彼は聖書において、キリストが既に死者であるラザロという者を指し、「この病は死に至らない」と言い放ち、その後、キリストの奇跡により死んだはずのラザロが墓から蘇るという一連の記載を引用する。

つまり肉体的な死は魂の死ではなく、魂を死に至らしめる存在はそれとは別にあるというのが彼の主張だ。それこそが絶望であり、それを定義として表したことにキルケゴールの偉大さがある。

 


(4)罪について
次に登場人物が異様なまでに固執する罪の概念である。
さくら、もゆ。の登場人物は自分が存在すること、あるいはしてきたことに対して罪を感じて、罰せられて当然もしくは罰せられたい(代償を支払いたい)とまで考えている。そのため、この作品を理解するには罪が何かを整理しないといけない。


罪という考え方は通常考えると“特定の何か”に対する罪となるが、
この特定の何かというものを理解するのが重要と考える。
例えば、法に対する罪はそれが悪法であっても犯せば罪になる。
同様に神に対する罪はそれが悪神であろうと善神であろうと罪になる。

さくら、もゆ。の記載を読むと途方もないこの世界の摂理(=神)に逆らってしまったことに対する自己の罪と読み解ける。ここでいう神はギリシャ神話や日本神話のような神よりももっと大きな汎神論的な考え方となる。

スピノザが言うように「人は神の様態の一部である」という点に集約される。
人が集まり、町が出来、町が集まり、国が出来、国が集まり、更にすべての動植物や無機物、有機物を合わせて世界は構成される。
とすると人は世界の構成物の一つであり、神の様態の一つである。

世界に反抗することは罪である。

では、何が罪になるのか。
これはさくら、もゆでは分かりやすいが、絶望が神に対して罪となる。
キルケゴールの言う絶望を神に対する言葉として“罪”と呼ぶ。
死に至る病」では罪をそのままにしていることが既に新たな罪を生み出している、という内容がある。
つまり、さくら、もゆ。で絶望が罪であるならば、その絶望状態をそのままにすることがいわば新たな罪という考え方となる。

キルケゴールの解は神への帰依がこの絶望状態を救ってくれるという発想になる。
ドストエフスキーもこの思想の延長線上にあり、農奴解放後のロシアを渦巻く無神論という大きな影に「悪霊」のステパンや「罪と罰」のラスコリーニコフとソーニャのような神への帰依で最終的に希望が見いだせる。

しかし、さくら、もゆ。はこのアプローチをとらない。
結局のところ「意地悪な神様」は絶望から誰も救わない。ただ、淡々とリアリスティックな悲劇があり、まるで意図したかのようにハルを始め、登場人物には不幸が訪れる。

逆に登場人物は不幸を罰や代償と捉えて、「それは罪があるからだ」と理解し、
そのことに絶望し、更に不幸になっていく。

これをどう解決するかが、肝となる。

 


(5)神について
神の考え方は幾つもあると思うが、類型を示す。
なお、類型の名称は特に文献などを参考にせず、分かりやすく自己解釈のもとに記載している。

 

・一神論
ユダヤ教キリスト教イスラム教が例となる。
この三つの宗教はどれも同じ神を信仰しているが、預言者と戒律の点だけで違いが発生している。

一神論に立った場合の構造的な課題として、人生における悲劇や不幸も万能である神の意図したものとなってしまう点が挙げられる。

それを整理する方法はいくつか与えられているが、実際に不幸にあった人間の理解を得るのは難しい。決定論であれば虚しさが心を占有し、神の試練とすると試練を与えた神を恨むことになるだろう。

終末後の世界で救われると言っても、ではなぜ現世でここまでの不幸を与えてくるのか?という問いの納得いく説明は難しく、神への信仰が弱いからと言ったところで、信仰の強い人間が不幸にあった場合は出口のない迷路に陥る。

さくら、もゆ。でハルが陥った迷路はこの一審論の構造的な課題と整理が出来る。

 

・二元論
これはゾロアスター教が分かりやすい。ゾロアスター教は古代イランにて栄えた信仰で、ゾロアスターツァラトゥストラ)が唱えたものである。
文献によっては少なからず、キリスト教にも一部影響を与えたと記載があるが、
確かにキリスト教の終末の概念など一部はゾロアスターの影響もあるように感じる。

このゾロアスター教が二元論とされる理由は以下の通りである。
善神アフラ・マズダと悪神アンリ・マユ(アーリマン)の戦いがこの世に起こっており、その戦いにおいて力が強いものの影響が世に表れる。
この世界での不幸はアンリ・マユの力が強いために起こり、善神のせいではない。

世界は観念の世界と実際の世界があり、人は死ぬと魂が離れ観念の世界へ到達する。
すると、そこでアフラ・マズダを信仰した者は橋の先の天国で報われ、
信仰せずにアンリ・マユに利する者は橋の下の地獄へ落とされる。

この考え方は一神論よりもシンプルにこの世界の不幸を整理することが出来る。
不幸にあった場合も善神を応援する方向になり、悪神や罪を憎む形となる。
確かに現世では悪神が強く救われないかもしれない、しかし死後は報われる…とんな整理が可能であり、一神論の構造的な課題への回答が示されている。

 


・多神論
これはギリシャ神話、日本の八百万の神北欧神話、ヒンドゥ教などが当たる。
神はあくまでこの世界を構成する一部の要素を司り、それぞれの神で上位や下位の概念はあるが、万能であるという説明はしない。
神たちはいわば人間や妖精の延長線上に存在し、敬えば喜び恵みを与えてくれて、
ないがしろにすれば怒り天災を起こす。
ギリシャ神話であればユピテルを信仰し、ヒンドゥであればシヴァもしくはヴィシュヌと神が沢山いることを認めつつ、最高神を信仰していく形になる。

これは農耕的な観点が強いと考えられる。一神教遊牧民などを中心に栄えたのとは反対に豊かな実りを与えてくれる神に感謝し、天災を避けるために神へ祈る…このような発想になる。
あくまでこの観点では人生においての悲劇までを神の責任と捉えることはしない。
かなり自由な形での信仰となる。

 


・融合論
これは人が神と一体化する、もしくは神となる考え方である。
例としては仏教や古代インドのウパニシャット哲学などが代表される。

この考え方の類型として、悟りや宇宙と一つになる等の思想が根底にある。
このように書くとなんだか怪しく聞こえるが、誤解を恐れずに簡単に言えば、
仏教の修行のようなものである。
浄土真宗などは誰でも成仏できるとされるが、小乗仏教は一部の修行した人間かつ男性のみ、大乗仏教は修行した人間のみが成仏できるという考え方になる。

さくら、もゆ。では"夜の国"を作った者はほぼ神と同等の力を持つ。
一方でその神が元は何だったかというと人間である。
人間が神となるという点では、人が神と融合するという考え方、
全は一、一は全とするような理解が求められる。

そして、本編に手出てくる魔法も想像力に所以するが、その力は人の頭の中にあることは代償さえ払えば出来てしまう。これも世界を自由に作り変える能力、すなわち神や仏の力とまで言えるようにも思う。

さくら、もゆ。において絶対的な真理や理を一つの絶対神と置きつつも、更に人が神に至るという考えも融合しているところに特殊性がある。

 


(6)生きることについて
さくら、もゆ。のクロ、主人公が持つ絶望の根本には「生まれてきて良かったのか」という悩みが存在する。
他のヒロインも大なり小なり、自分が存在してしまったことによる世界への影響に悩み、絶望するという構造がある。
生きることにどうやら意味がない、というのは18世紀後半から19世紀にかけてショーペンハウア、ニーチェと続き、
「無」がドイツを中心に考えられ始めた概念だ。
その当時のドイツは一種のギリシャへの憧れが強く、ゲーテを始め、ヘルダーリンワーグナー、ショーペンハウア、ニーチェと根本にギリシャ的な死生観が流入していったのだと思われる。
そのうちに「悲劇の誕生/ニーチェ」にて反出生主義ともいわれる内容が記載されている。

古代のミダス王がサテュロスの賢人シレノスが人にとって最も良いことを聞くと、
賢人は聞かない方が良いと言いつつも最後に答える。
一番良いことは生まれないこと、二番目に良いことはすぐ死ぬことだと。

また似たような話はゾロアスター教にも言える。仏陀は生まれてすぐ天上天下唯我独尊と言ったようだが、開祖のゾロアスターは生まれた瞬間に笑ったと言う。
この笑いの解釈について、通常は人は自ら生まれたことの不幸を嘆く、やがて死ななければならないことを嘆くため、赤子は生まれてすぐ泣くのだが、奇跡に救済されることを確信したゾロアスターは笑った…ここに特殊性がある。

要はゾロアスターにおいて生は不幸ではない。

同じように生を不幸と捉える方向に対して、さくら、もゆ。は明確に否定する。
クロが言った「きみがこの世界に生まれてきてくれて、本当に、良かった」という台詞がさくら、もゆ。の全てのアンサーであり、希望となる。

生は肯定されるものだ。それが例え、罪にまみれていようと肯定していく。
その肯定は希望となり、いずれ絶望を打ち消し、罪をも打ち消していくだろうと。

 

(7)時間について
さくら、もゆ。において時間は過去から未来に流れていく一方で、あらゆる時間を繋ぐ存在として夜の国と夢が存在する。
過去、現在、未来で同じ夜の国という概念を共有していて、夜の国よりそれぞれの時間軸に到達するために終の駅より発車する列車が移動手段として使われる。
現実世界から夢もしくは死を通して夜の国に到達することが出来る。しかし、夜の国から現実に存在する過去、現在、未来に到達するのは夢から覚めて元々の時間軸に戻るか、列車を使うということになる。

本編で語られる夜の国がすべての時間軸に現れるとして、夜の国で生まれた悪夢もあらゆる時間軸に現れる。
すなわち夜の王は、最大の悪夢であるため、全ての時間軸で夜の王が存在するということも言える。
要は過去(A地点)、現在(B地点)、未来(C地点)という形で空間的に置き換えると、
世界中のあらゆる場所から太陽や月が観測されるのと同様に、夜の王が観測される。

通常の空間においてはA地点、B地点、C地点の移動制約はないが、時間という特性上、
A→B→Cへしか移動が出来ないという制約がある空間をイメージしてもらえれば分かりやすい。

さて、この状態で夜の王を倒したらどうなるか。
それは空間に置き換えると上記の比喩の太陽や月が各地点から観測されなくなるのみで、あらゆる各地点に対しては、太陽や月の消滅以外の影響はない。

また、更に複雑なのが、夜の国には別の時間軸が流れているということだ。
さくら、もゆ。の内容を見ると夜の国は瞬間、瞬間に因果関係なく世界が生成されているというよりは、一定の因果律のもとに世界が生成されているように見える。つまり時間経過自体は存在しているように見える。
なので、ここから解釈すると例えば、紀元1000年の夜の国にリンクする現実世界もあるし、紀元1,100年の夜の国にリンクする現実世界もあるという風に考えられる。
さくら、もゆ。で言及された通り、あらゆる可能性が無数の世界となるのであれば、
このリンク先が違う現実世界も夜の国の時間軸の数だけ存在する。無限の数えきれない世界が存在するという世界観になる。
これは正しいのかが判別はつかないが、自分はそう読み取った。

この夜の国は現実世界の時間をいわば超越するのだが、そのような空想とは別に
現実世界で時間を超越する者がある。それが創作物であると、さくら、もゆ。は回答する。
「物語」であり「歌」であり、「絵」である。
創作は時間を明らかに超える。なぜなら我々が読む神話は2,000年以上も昔から伝わっており、400年以上前の音楽家が作った音楽を聴くことも出来る。
ラスコーの壁画もダヴィンチの最後の晩餐も、ピカソゲルニカも全て時を超えて我々に感動を与える。物語で言えば、ギリシャであればホメロスアイスキュロス、更に神話であればラーマヤーナのような伝承も含め、時間を超える。

つまり、人は時間を超越しないが、創作物は時間を超越する。

 

2.MADについて


(1)総合的な観点
今回のMADについては、文学と宗教に寄った形での作風とした。
自分のスタンスだが、MADにおいて芸術、音楽、哲学、宗教、詩、文学など様々な要素を総合して作ることを重要視している。
例えば、サクラノ刻のMADは芸術と詩、哲学の要素を強くしたMADとなるし、
つい最近の現世巡礼交響曲は哲学、宗教要素をメインに据えつつ一部に美術と音楽、詩の要素を入れた。
今回のMADに関して言えば、さくら、もゆ。自体が「物語」と「死生観」を重視し、芸術家を敵視していることから、文学と宗教を多めに入れ、美術部分の割合を少なくしたというのが全体構成となる。

一方で宗教と哲学はかなり近しいものとしつつも明確に線引きをし、今回は宗教という要素を強くした。

 

(2)文学的な観点
メインテーマとして「物語」は時間を超えるのだから、時間を超えた文学を念頭に置いた。その上で、さくら、もゆ。と性質が近しい文学が何かという候補を選ぶ中でハーマン・メルヴィルの「白鯨」が当たった。

この「白鯨」はアメリカ文学の三大悲劇の一つとも言われており、難解さで有名な一方、サマセット・モームを始め、多くのファンを魅了した傑作である。
この作品の粗筋は、捕鯨船の船長エイハブが過去に白鯨と対峙し、片足を食われ、
その復讐のために再度、白鯨に対峙するまでの経緯をイシュメルという船員の目を通して描く。

しかし、メルヴィル象徴主義の流れを組んでいる以上、この作品の白鯨はただの鯨ではなく、“絶望”そのものを意味する。本当に存在するのかも分からない、神が作り出した“絶望”と言う概念に立ち向かう人間の話を描いたものと読み取れる。エイハブは唯一神ヤハウェが白鯨を作り出したとして、その“絶望”に立ち向かうわけなので、別の信仰を頼りにする。
それがゾロアスター教における二元論だ。言ってみればギリシャグノーシス主義においてデミウルゴスを創造神とするが、それが悪神であったと整理する考え方に似ている。白鯨の創造もこの“絶望”の創造主自体を悪神と捉え、その悪神に対する人間の戦い方である。

MADでは至る所に白鯨の要素を加えている。
"夜の王"は白鯨と同様の絶望の象徴であり、さくら、もゆ。もエイハブ船長同様に“絶望”と戦う話だ。そして、“絶望”を創り出したのが神であり、運命であるならば、その運命にも反抗して希望を見い出していくための物語とも言える。

冒頭の文献抄は白鯨の冒頭の完全なパロディだ。
白鯨は今回の冒頭で使った数倍以上の鯨に関連するあらゆる文献の記載が集められている。更に白鯨は物語の本筋とは別にあらゆる箇所に鯨の生態や捕鯨船における鯨油の取り方、鯨油を取った後の看板の掃除、鯨の種類、様々な鯨についての詳細な記述が存在する。

言ってみれば、これはさくら、もゆ。の長い文体にも共通し、それがゆえに白鯨は難読書とも言われる。白鯨が名作と言われるのは、この異常な量の文献の引用、鯨に関連する知識、はたまた聖書の引用が異様さや狂気、何か得体のしれない深淵を生み出しているからと考えている。

さくら、もゆ。と白鯨のこの共通点を抽出し、反映させたのが今回のMADだ。
このMADは妙な引用が大量に挿入され、原作にはないようなあらゆる不可解なモチーフが登場している。
全体を見て、物語がどのようなものか明快に想像できる人は皆無だろう。
その一方で得体のしれない不可解さや神秘さ、謎を表現できていれば、このMADは成功と言える。

 


(3)哲学的な観点
今回の哲学において、永劫回帰の概念を取り入れている。
ハルは過去の選択として、主人公と出会ったことをなかったことにしようとして、それが仇となり不幸な結末を迎える。しかし、一つだけ救われた扉が存在し、それが主人公との出会いを肯定した時間軸だった。

これが極めて、ニーチェ的な考え方となる。
永劫回帰において、何度も永劫に繰り返す人生の中、過去にしてしまった選択を肯定し、自分がその選択を選んだのだと過去を塗り替えることを良しとする。

さくら、もゆ。は説明してきたように宗教で人を救うという解をとっていない。
神が人を救わない前提で救われる方法を見い出す話だ。

また、もう一つの哲学的要素としては“時間”の存在がある。
このMADのタイトルとなった「超越的時間」は造語である。
クロが存在する時間はあらゆる認識を超越した特殊な時間だ。
クリストファー・ノーランの「インターステラ」にて次元を超えた宇宙の果てで
過去、現在、未来に繋がった特殊な時空が現れる。
「インターステラ」では主人公が過去と交信することで娘にメッセージを送ろうとするシーンがある。さくら、もゆ。のクロも同様で、時間という概念を超えた特殊な空間からメッセージを送ろうとする。

有限な生の中で、クロは無限の世界を持つ。

 


(4)宗教的な観点

宗教的な観点では、キリスト教での絶望、罪の整理に対する明確な否定として映像を作っている。つまりキルケゴールドストエフスキーのような信仰による救済ではなく、個々の人が自己の選択を肯定して生まれる希望を回答に置いた。

ハルが罹ったのが“死に至る病”だとして、罹患中のハルが見ているステンドグラスは信仰であり、ステンドグラスの内容は「罪と罰」のラスコリーニコフとソーニャに当たる。
最終的にはその方法では自己は救われず、「神はとうの昔に死んでいる」が結論である。
結局は自己の選択の肯定により象徴であるステンドグラスは割れるのである。

 

また、夜の王が現れる空間はあえて宗教的要素を投入した。
月に浮かぶ鯨を観測しているのは紀元前のゾロアスターであり、弟子を引き連れたキリストであり、三日月を見ているムハンマドやアラブ人であり、ラーマヤーナに出てくるラーマとハヌマンである。

あらゆる神においても絶望は観測される。いつの時代も絶望は観測されている。
“夜の王”があらゆる時間軸に現れたということはそれだけの意味を持つ。

 


(5)芸術的な観点
今回は芸術的な観点は少ないが、大きな本流としてロマン主義の大家ドラクロワの絵を随所に入れた。
一つは「怒れるメディア」これは夫に復讐を企てる魔女メディアが最大の復讐として、
自分の子供を殺したという話が由来だ。

さくら、もゆ。においても子供を大人が殺すもしくは迫害するという表現が出てくる。
子供を守るために子供を不幸にする。これはメディア同様の狂気である。

二つ目は「ヤコブと天使の闘い」だ。これは旧約においてヤコブがある日、天使と戦って打ち勝ったことから
「神と競う者」と名付けられ、それがイスラエルの語源となったという話に由来する。
さくら、もゆ。において彼ら10年前の子供たちが戦うのは絶望を生み出した神、あるいは運命そのものである。

ちなみに聖書の題材を絵にした画家は無数にいるが、その中でロマン主義を貫いたのはドラクロワ一人だけだ。
いずれ記事に書くとは思うが、このドラクロワという画家は19世紀において神格化され、間接的に印象派を生み、セザンヌのようなポスト印象派を生み、モローやルドンなどの象徴主義を生んだ源流の画家なのだ。

ノベルゲームも実はこのロマン主義の潮流に乗っている。
Favorite、Key、Frontwing、Purple、Liar、どれもロマン主義の延長線上にシナリオがあると見る。そして、さくら、もゆ。は特にその傾向が強いノベルゲームということで象徴的にドラクロワの絵を置いている。

 

3.その他の事項について

以下、各シーンごとに何がモチーフとなっているかを説明する。

文献抄。実際の記載は「鯨」のみである。

 

不思議なことにリグ・ヴェーダ(古代インド宗教の教典)とアヴェスタ(ゾロアスターの教典)には同じ概念が存在する。これが、ソーマとハオマだ。どちらも酒とも思われる飲み物だが飲むと不死となるとされている。そして、それは一本の木からとれる液体だと言う。

 

ゴンド民族の伝承には不思議な「夜の木」という概念がある。これは昼は普通の木に見えるものが夜が訪れた時に魂を持ち精霊が現れるという伝承だ。夜の国で桜が咲くという点で神秘的な桜が咲くという本編に一致する。

 

チェーホフも戯曲「桜の園」で桜について不可思議な表現をしている。この部分は桜に魂があるという主旨で入れているものだが、あらゆる国において桜には魂が宿るという思想がある。

 

エドガー・アラン・ポーの傑作。黒猫より拝借。元絵はピアズリーが書いている。怪奇小説の祖でもあるポーの黒猫は忌まわしきものと描かれる。

 

 

ヘラクレイトスギリシャ哲学で有名なソクラテス以前の哲学者で泣く哲学者とも言われている。彼は奇妙なことに死と眠りを極めて近いものとした。生者も眠れば死者に接続するというのは、さくら、もゆ。において夜の国で眠った生者と死者が出会うことに等しい。

 

白鯨は日本名だが、原文タイトルはMOBY DICK もしくは The Whaleだ。
実際にエイハブ船長が対峙する白鯨の名がMOBY DICKと言う。一方の鯨は白鯨そのものではなく、鯨自体をメルヴィルが描きたかったため、そのタイトルなのかもしれない。

 

エミリー・ディキンスンの詩において、永遠は太陽である。永遠とされる太陽は沈み、夜の国が現れる。

 

白鯨の章に「金箔の海」という章がある。嵐の前の静寂な海にエイハブや乗組員は故郷のアメリカの草原をイメージする。この海には神聖で何も音が聞こえないような静寂がある。

 

中世よりメメント・モリの表現で三人の生者が三人の死者に会うという表現がある。彼女たちは死と隣り合わせの中で生きている。

 

ロマン主義の作曲家ベートーヴェンは自身の手稿にて上記の記載を残す。ハルの境遇に驚くほど一致する。ハルは滅びを自己の分身の中に見る。

 

これはヨハネの黙示録からの引用。第三の御使のラッパにより大きな星が落ちてくる。さくら、もゆ。でも同様に月が落ちるという展開があるが、終末に必ず星が落ちてくる。

 

ベルギーの奇祭に猫を塔の上から投げ落とすという祭りが存在した。黒猫はケルトの妖精などを連想させるが、中世では忌むべきものとされた。これは一説にキリスト教を世界で布教させる上でこのケルト信仰などが邪魔となり、異教を糾弾するという流れから来たものだという。(もちろん姿もあるだろうが)クロも存在自体が忌むものだとされた。

 

これは上でも書いているが、ミダス王が賢人シレノスに一番良いことを問う話より引用している。シレノスは生を否定する。

ドラクロワの「怒れるメディア」より。王女メディアは夫への復讐のため子供を殺そうとする。

 

新約よりヘロデ王はキリストの誕生を知り、救世主が自分を脅かすことに恐怖しベツレヘムの幼子を皆殺しにしようとした。さくら、もゆ。の大人たちも同様に子供を殺そうとしている。

 

ましろが向かう十字架は犠牲の象徴である。キリストは十字架に磔になった時に一度だけ、神に対して「なぜ見捨てたのか?」と問う。

 

罪と罰」に出てくる怪人物、ズヴィドリガイロフはラスコリーニコフの分身でもある。彼はラスコリーニコフの妹に近づき、思いが報われないことを知り自殺する。それは彼が自己でいることに絶望し、その絶望に呑まれたからである。

 

運命の神、フォルトゥナという神がいる。この神は大きな車輪を回し運命を操作するという。さくら、もゆ。で主人公たちが戦わなければいけないのは、この運命そのものであり、決定論やこの世界の真理を克服させた先の幸せを目指す。

 

ニーチェは「この人を見よ」にて過去に対する姿勢について言及する。ニーチェ永劫回帰の中で過去の選択を肯定するのが正しいと言う。まさにこの姿勢はハルが主人公との出会いを肯定した時に現れた扉と同じだ。

 

さくら、もゆ。にて大河は名前であり、時間の雄大な流れも意味する。この大河のほとりに立つのは、ヘッセの「シッダールタ」より引用している。シッダールタは修行を進めるうえで更なる悟りを開くために、一度堕落し女と金を理解する。その後、川の渡し守の老人に師事する。彼の修業時代の友人が再開した時にシッダールタの目の中に悟りを見たという。

 

白鯨のクェーカー教徒で捕鯨船の持ち主であるビルダド船長より引用。聖書の記載。

 

永井荷風の「ふらんす物語」に夕暮れの山を修道士たちが歩いているというような詩的な記載がある。ましろを信仰する者も同様に夕暮れから夜への移行を予感する。

 

彼は死を悩んでいる。後ろには「かもめ」からトレープレフ、「悪霊」からキリーロフ、「若きウェルテルの悩み」からウェルテルの絵がある。皆、一様に死を悩んだ。

 

白鯨においてヨナ記は重要な位置を占める。ヨナは神の使命から逃げ出し、航海中に鯨に呑まれたという。鯨に呑まれたヨナは三日間、神に祈り悔い改めた結果、救い出されたという。

 

上から宗教別に鯨を見たという表現にした。ゾロアスター、キリスト、ムハンマド、ラーマ。

 

これは大河の表現となり、川には無数の舟が浮かぶ。この舟が一人一人の人生であり、川は時間の流れである。イメージは「ふらんす物語」にて帰国の途につく際、スエズ運河を通る記載があるのだが、そこの部分で得た着想から拝借した。

 

白鯨よりエイハブ船長と鯨が対峙するシーンからの着想。彼らは絶望の象徴である“夜の王”と対峙する。

 

スタインベックの「ハツカネズミと人間」からのオマージュ。ラストシーンで、ジョージは子供のような大男レニーに銃口を向ける。レニーは一人女を事故により殺している。ジョージはレニーを殺したくはなかったが、仕方がなく一番レニーを苦しめない方法で語りかけながら銃を向けた。

 

ドラクロワヤコブと天使の闘い」、さくら、もゆ。は神(運命)との闘いである。

 

“絶望”との対峙の果てに彼は「金箔の海」の向こうに桜と一艘の小舟を見る。

 

 

4.最後に

サクラノ刻は芸術と哲学について突き詰めた作品ならば、
さくら、もゆ。は宗教と哲学について突き詰めた作品のように感じる。
どちらもノベルゲーではトップクラスの作品だと思うが、
同じ桜をテーマにしつつも方向性が全く違うところが面白い。

今回のMADは自分がこのさくら、もゆ。という作品を読んで、
それを今、自分が理解している思想と照らし合わせながら整理して作った。

 

ここまで長々、書いても読む人間はほとんどいないと思うが、こうして文字で残さない限りは作者の頭の中は永遠に謎だ。

最近、古本屋で「ドラクロワの日記」を購入した。戦時中の書籍で旧字体ばかりで大変読みづらいのだが、自分からすればドラクロワがどのようなことを考えながら絵を描いたかが明快になり、参考になった。

そのような位置付けで誰かしらに届く部分もあるかと思うので、今回も編集後記を書いている。

 

 

現世巡礼交響曲について

この編集後記は「現世巡礼交響曲」について、理解の道筋になるよう作者の思考の過程を整理したものである。(敬体ではなく、常体で記載するが容赦頂きたい)

youtu.be

 

編集後記を書いて映像の説明を長々とするのもいかがなものか、という声もあるとは思うが、このMADについてはある程度の解説が必要と判断した。
本作でも引用しているがニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」も「この人を見よ」の総括が無ければ、今ほどに理解されているかは怪しい。
映像だけで全てを説明し切ることは現実的には不可能な場合も存在し、映像のみで全てを説明し切れると考えるのは自然主義文学の映像化か、映像の作り手の映像への過信と考えている。

 

MADの位置付けも本質的にはバイロンの詩をもって「サルダナパルの死」を描いたドラクロワ同様、一つの一次的な作品を発展させ、作者の独創性に基づき作るものと捉えている。それが元は諧謔的なものから始まり、ゲーム・漫画の映像化となり、今ここに芸術を意識したMADが今後は台頭していく可能性を予想する。

ここからは本MADの解説に移る。

 


1.現世巡礼交響曲の意義

このMADを制作する契機となったのが、“普遍”となる。
要はあらゆる現代の具体要素を取り除き、どの年代でも共通する思想をテーマに何かを作ることが目的となる。

普遍をテーマにした際、思い当たるものは多々あるが、その一つの「銀河鉄道」というモチーフを今回のテーマとした。「銀河鉄の夜」は宮沢賢治1924年より推敲、死後に草稿として残る。話は簡素で一般に知られるのは第四稿に当たる。
ジョバンニとカムパネルラ、二人の少年が銀河を走る不思議な鉄道に乗り、その道程を描く。初稿から第三稿ではブルカニルロ博士なる人物が登場し、これらの道程が一つの実験であることが明かされるが、四稿では削除されている。

 

既に100年近く前に書かれたものにも関わらず、本作をノベルゲームのテーマとした作品がある。「さくら、もゆ」「素晴らしき日々」「青い空のカミュ」「星空鉄道とシロの旅」などが当たる。今回は銀河鉄道という普遍の鉄道を拝借し、さらに関連したノベルゲームから登場人物を拝借し作品を作っている。

もともと、宮沢賢治の童話は法華経を寓話化している。彼は当時、国柱会という法華経の仏教団体に入ろうとしたほどの法華経信者だが、実家は浄土宗と聞く。

法華経という教典については実際に書き下しを読んでみたが、法華経自体に何か悟りのための何かが書かれているわけではない。法華経を敬い、法華経を広めることにより、現世の人物は菩薩となり、さらに最後は如来となるとされ、教義に当たる具体的なことは書かれない。浄土宗は数ある如来のうち、阿弥陀如来により浄土への道筋を他力本願で到達するというのが基本思想だが、法華経はあくまで釈迦如来(以降、一般的な釈尊と称す)による悟りを中心とする。例えば、三車火宅の譬え、普賢菩薩、観世音菩薩、薬王菩薩、そして常不軽菩薩の法華経に関する功績が書かれている。

法華経(仏教)の精神が言うことは現世の人物が悟ることを重視している。
西洋のキリスト教における天国や浄土宗の極楽浄土は、現世にはない。
“死後”の世界を前提とした宗教と“生”を前提にした宗教の決定的な違いがそこにある。
(この理解は無学なため、間違いも多いかもしれない。

 

例えば、キリスト教に至ってはいずれ起きる終末にすべての人間がキリスト前に引き出され、天国と地獄の裁定をされる。システィーナの天井画にある「最後の審判ミケランジェロ)」が一般的にイメージされる図となる。
ここから考えるに、生きている時の幸せのために徳を積むのではなく、死後に天国に行くように徳を積めという論理になる。たとえ生が辛くとも、試練が多くとも、善行を積めば天国の門が開く。鍵はペテロが持つ。
この考え方は現世での幸福を無視し、死後の幸福のために生きることと同義だ。
そして、これはおかしいと糾弾したのがニーチェという理解である。
ニーチェはこの天国や冥府と言われる存在を背後世界と呼んだ。
そして、人の本質を無視し奴隷根性により善行を定義したキリスト教徒をルサンチマンとした。

ニーチェがショーペンハウアを通して仏教の影響を受けていたとして、何かしらの仏教の影響を受けた場合にキリスト教絶対神の信仰や死後の幸福ということに対して、否定的になるらしい。
それは仏教が一神教のような超越者という形をとらずに、現世での各々の自己の悟りを目的とするからだ。つまり仏教が宗教ではなく哲学と言った方が方向性は近い。

そうなると「銀河鉄道の夜」を解釈する際にカムパネルラは現世において死を迎え、
天上を通り過ぎ石炭袋で消滅したわけだが、石炭袋を冥界とするとカムパネルラが冥界にいるということは現世で悟りを得るという法華経の精神にそぐわない。
石炭袋が実は輪廻の穴だった、あるいは神と同一化したなど法華経に関連付けた解釈もされつつも明確に冥界から現世へと渡す帰りの鉄道の旅を描きたいと考えたのがこのMADを作るに至った背景である。

ここまで書き、ようやく「現世巡礼交響曲」の構成の説明が可能となる。

 

Ⅰ 天上の終焉 は冥界の否定である。死後世界を完全に否定する。
ここはニーチェの背後世界への解釈から“神は死んだ”だから現世への帰還を命ずるという話にした。途中でステュクス河など出てくるが、今回の作品ではあまり仏教に寄りたくなかったため、様々な宗教学においての冥界としての風景にした。仏教に寄りたくない理由は後述する。

 

Ⅱ 現世巡礼 は冥界を出発し現世に至るまでの巡礼の途を意味する。
途中の風景は各登場人物で違ったものが見えている。
見えているものの説明は登場人物の項にて行う。

 

2.登場人物の寓意について

このMADは思想の寓意である。元々、あらゆる創作物に登場する人物は何らかの思想を寓意している。何もテーマ性がない作品であっても登場人物は現在の現舞台の中で常識とされる思想に縛られ行動している。そして、当然創作者の主張は登場人物を通して語りかけられるため、創作者と登場人物は一体化する。

 

寓意について古来で言えば、各々の聖人を宗教画においてどう見分けたかというとアトリビュートである。香油があればマグダラのマリアとなるし、十字の杖があれば洗礼者ヨハネとなる。
15世紀のピーテル・ブリューゲルの絵画の「ベツレヘムの人口調査」はヘロデ王の大虐殺を知らなければ、ただの人口を数えている絵にしか見えない。
この寓意を読み解く能力を求められ、絵を知性とした二コラ・プッサン、フランス絵画の祖の考えだが、中世以降の近代までの人間はあらゆるものに寓意性を持ち、生きてきたと考えて良い。

となれば、逆に言えば、モチーフに寓意性を求めず単純な視覚効果を重視することは
長い歴史上は異端と考えられる。
という考えのもとにMAD自体を「ツァラトゥストラ」と同じレベルでの寓意だらけのものとすることを今回行ってみた。

本作は思想の寓意として4人の登場人物にそれぞれの思想を関連付けた。
単純な効果を考えれば、宮沢賢治の思考を踏襲し、法華経の形で常不軽菩薩として
現世に幸せを求めるという物語が明快なのだが、プロットの途中で破棄した。

これは各時代の各思想、各宗教を寓意化し、その思想においてどのようにすれば幸福を求められるかを整理した旅路である。つまり、Ⅱ.現世巡礼 の冒頭のニーチェのテキストにあるように「真理」は法華経でもなく、存在はしない。
それぞれの持つ「真理」をもとに多角的な遠近法を統合していった作品としたかった。

 

また、各登場人物が象徴する思想の流れはある程度、時代にも沿って作成をしている。
クロ(19世紀前半 ドイツ哲学、フランス ロマン主義)、
ざくろ(19世紀中期~後期 無神論的なキリスト教哲学、世紀末美術)、
燐(19世紀末~20世紀前半、ニヒリズム、不条理思想 シュールレアリスム)、
ノワール(21世紀 哲学の限界、自然主義の台頭)
という形で構成した。

ノワールの位置付けは異論ある人間も多くいると思うが、思想や芸術の流れとしてはまず、ギリシャへの憧れを持ったゲーテヘーゲルヘルダーリンを経て、仏教の流入も加えてショーペンハウアやワーグナー的な人間が生まれ、そこに戯曲や演劇、文学などの宗教とは別の詩的な感性がより強く哲学に融合された。
そして、その大きな流れの途上にゲーテシェイクスピアバイロンなどを以て、ドラクロワのようなロマン主義の潮流が誕生した。

 

その後は世紀末に「愛」と「死」など、概念を寓意として象徴していく象徴主義の芸術がロマン主義の延長に生み出され、モローやクリムト、ルドン、ゴーギャンが活躍して同時に詩人ではボードレールマラルメ、文学ではユイスマンスなどが現れる。
この象徴主義における無神論的な悪を描く共通点として、ドストエフスキーのような無神論を更に進めたキリスト教も誕生。


さらにショーペンハウアより仏教における「無」を引き継いだニーチェは新たな思想を生み出し、その思想は第一次大戦を経て、「理」を定めない不条理思想のカミュベケット、芸術における「理」を叩き壊していくシュールレアリスムへと受け継がれていく。


最後に現在の道筋の途上にヴィトゲンシュタインがすべての哲学を否定し、自然主義として神を信じず、哲学もない、科学文明が大半を占める現在の潮流へ合流する。

 

上記のような歴史の流れを考えつつ、MADは作成している。
ここから先は、各原作においてのテーマをモチーフとしつつ個人的な解釈も含めつつの関連を以下に示す。

 


①クロ【さくら、もゆ】

彼女のテーマとするものは仏教、ショーペンハウアに代表するペシミズムやロマン主義思想を関連付けている。
元々、さくら、もゆは極めて汎神論的な思想が強いが、刻の最終駅の輪廻的な考え方や
あず咲、ハルも含めて自己の中に神を見出し、世界は主観による表象として表現される。すなわち想像力を魔法と置き換えているが、この自己においての主観(直観)が形成する世界なのだから、その主観が変化することにより世界も変化するというわけである。ここが仏教に近しい。

ショーペンハウアは世界はマーヤ(迷妄)に包まれていると言う。
すなわち、世界は「無」であり、我々はもやのようなものを通してしか世界を認識できない。19世紀前半は上記の「無」に関連したペシミズム的な思想が台頭し始めた。
そんな「無」の生き方に対してショーペンハウアはワーグナーに答えを見出し、芸術を見出した。また、「無」となることで「有」となる。というような仏教思想の原点であるインド哲学にも大きな影響を受けている。

その「無」の世界に対して「自己の中に神を見出す」「創造・芸術」を解答にしたシナリオとして本作を構成させた。感覚として西田哲学に近いものがあるが、結局のところ仏教においての自己犠牲は一つの世界の統一作用に依るものと捉える。つまり世界の統一が幸福であり、他者を知ることは自己と他者の統一なのだと。
他者を自己として捉える、それが他者の中に自己を見出し自己として対応する。これを仏性とした。蠍の火においての幸福は自己犠牲により他者を救う悟りを意味する。
これが基本的な常不軽菩薩の精神であり、最も宮沢賢治の思想に近いと捉えている。

 

中途の風景はロマン主義に代表される文学、詩および絵となる。
結局のところ、さくら、もゆは歌が時間を超越し世界を繋いだわけだが、同様のことが
ギリシャ悲劇、ラーマヤーナのようなインド神話シェイクスピアの悲劇、ワーグナーと至る所である。確かに考えてみれば数千年を生き残った猛者が物語であり、芸術である。これはサクラノ刻なども壁画などで言及しているが、美の永遠性とも言えるだろう。この物語は最も創作者、芸術家らしい話になっている。

 


②高島ざくろ素晴らしき日々

テーマとするのはキリスト教、キュルケゴール、ドストエフスキー
自己の人格的欲求を満たせなかった罪あるいは絶望を大いなる超越者への愛を持ち、その罪の先に幸福を見るという話である。
キルケゴール実存主義の祖と言われ、あれだけキリスト教を糾弾したニーチェにおいてドストエフスキーへの共感があったということはこの宗教は単純なものではないように思われる。
高島ざくろは校舎より飛び降りて、現世を去る。「悪霊」においてキリーロフが神から自由となることを証明するために死を選んだように複雑怪奇な理由だったと思うが、引き金となったのがざくろ自身が“絶望”したからだと捉える。
西田哲学だが、自己の人格的欲求を満たすものが善行である、とするならば欲求を満たせなければ罪である。キルケゴールも似たようなことを言っているが、限りなく自己であろうとするないしは自己でありたくないと考えることで"絶望"が生まれる。この"絶望"を神の前にて表すと"罪"に該当する。

 

スタヴローギンやズヴィドリガイロフが罪で死んだのであれば、それは"絶望"で死んだのだ。
金閣寺を燃やした若僧が罪の意識を持たなかったとすれば、金閣を燃やそうとも人格的欲求に適合したからだ。
高島ざくろは間宮卓司の前でいるべき自己を失ったから"絶望"し、"罪"を感じた。

その"罪"の先に現世で幸福を得たのは愛を得たラスコリーニコフだった。
ドストエフスキーの小説群はキリスト教の持つ愛により無神論が救われるという結末を示唆している。

上記のシナリオをざくろに適用した。

 

現世への途は世紀末芸術として死や愛を描いた画家の作品を参考に世紀末的不安を象徴させた。素晴らしき日々の持つ末法は世紀末特有の不安であり、19世紀末に同時多発で現れた世紀末芸術は同様の思想である。そこでは"運命の女(ファム・ファタール)”が恋人の首を盆にのせて、黒い眼玉が世紀末の人間をじっと見ている。

この物語は最も宗教的である。ベルクソンにおいて理性と本能の二元論の果てに、
宗教が理性に対する本能の防衛的機構である、という主張はとてもしっくり来る。
そうでなければ、ここまで世界各地あらゆる年代で同時多発的に宗教と言うものが発生することの理由が説明できない。

 

③込谷燐【青い空のカミュ

テーマとするのは無神論、特にニーチェからカミュの実存へと続く人生においての宗教外の答えの出し方となる。仏教世界では因果律が支配し、キリスト教では理性すなわち”理”が世界を支配するわけだが、カミュは世界に“理”などないという言う。


「青い空のカミュ」で燐が巻き込まれた異常な事態には因果律はない。
いくら燐が酷い目にあっても仕方がない。善人だろうと因果なく不幸な目に合う。これを“不条理”と言う。そして人生は神などおらず、意味もなく、我々はただシーシュポスの神話のように大岩を運び、落とされてまた運び続けるだけの人生だ。

結局、ニーチェにしろカミュにしろ、生は“無”とした。ここまではショーペンハウアに近しいが、ニーチェはその“無”に対し、人生は“遊び”のようなものだと言う。
だから、“無”であることを理解し、世界が永劫回帰して同じ選択を求められても、
その選択が正しかった、自分で選んだものなのだと言うがいいと言った。
カミュも同様に“無”を理解しつつ抵抗することに意義があるとする。

燐の話は“無”の世界に対して、宗教にも芸術にも頼らない。
人間としての戦い方をアンサーとして据えた。そこはニーチェ由来のものだが、燐は何度でも蛍との出会いを肯定し、蛍との別れすらも肯定する。

 

中途は理性を敵視したシュールレアリスムを背景として置いた。
第一次世界大戦は人の理性により引き起こされた事象であれば、
“理”は残酷であり、“理”がない、いわば現実の不条理世界を表した何かが必要だ。
これがシュールレアリスムの起こった背景とするならば、理の一切ない不条理世界にピッタリではないだろうか。
真ん中に立つ一本の木とゴドーを待つ二人の男は不条理の象徴だ。

 

この物語は最も荒涼とした無秩序の再現である。
しかし、世界に因果律など存在せず神もいないと捉えるのは現実を正確に捉えた姿とも言える。この悲劇的で無味乾燥な現実に耐えうるために哲学者は何一つ答えを出してくれないが、共通して哲学者が言うことは”不条理に抵抗or無を受け入れろ”である。

 

ノワール【星空鉄道とシロの旅】

テーマとするのは無神論自然主義、哲学不要論としての立場に当たる。
星空鉄道とシロの旅は限りなく分かりやすいテーマの作品だ。21世紀の人間の一般的な常識や思想であれば、この物語のように自然主義的な観点を持つと言える。
誰かのために身を投げ出すという他己優先の考えも、死後であれば美談だ。
しかし、前三作と違い、この作品のみ最も宮沢賢治の愛した岩手の景色を感じた。
ヴィトゲンシュタインはあらゆる哲学的な問題は言語の限界から来るとした。
形而上の概念を言語で説明しようとすると限界が起き、この言語の混乱によりあらゆる哲学的な諸問題は引き起こされていると。すなわち、哲学を否定した哲学で有名だ。
ノワールは我々の取り得る最も一般的な像であり、人生を“無”と考えることもしなければ、その答えを出そうとはしない。語りえぬことは語りえない。ただ、自然がもたらす美に対して、彼女は驚嘆する。

 

彼女の位置付けは前の三人とは大きく違う。彼女のみが現実世界で言われるところの現世に戻ったからである。
これは思想、宗教を排除した現実的な蘇生に近いととらえてもらえればよいと思う。
物語上そうであるということと、その蘇生に当たり失われた犠牲を受け止め新たに前を向くのが彼女の幸福である。

 

現世までの道は自然主義の考えが根底にある印象主義をベースにしている。
印象主義バルビゾン派の風景画から起こった運動だが、根底には文学において自然主義、絵画においては写実主義と呼ばれるロマン主義の後の考え方が元になっている。
それまでの理想化されたルネサンス時代の絵画やギリシャを規範とした新古典主義バロックにおける宗教画、これらの理想ではなく、ただ現実の一瞬を切り取り描く。これが印象主義の考えだ。
ただ、一点だけ印象主義の一瞬の美だけではなく、岩手の自然など普遍の自然を取り入れるためセザンヌ的な側面(ポスト印象主義)も意識して作成した。

 

この物語は最も明快でリアリスティックだ。
恐らく現代において、現実的に生きる人間は大半がこの考え方になる。
哲学を不要とし、目に見える自然に共感し、ただ自然のままに人生に生きる。
これはある意味、日本人にとって耳障りの良い考え方ではないだろうか。
日本において圧倒的に人気があるのはモネとゴッホだ。どちらも自然を対象としている。また、日本で江戸まで基礎を築いた朱子学など論語思想が受け入れられたのも同様の形而上の概念を考えるより実践的なプラグマティズムが民族の肌に合っていたからだろう。伊藤仁斎荻生徂徠、会沢正志斎へと運ぶ孔子の命脈である。

 

3. 諸要素について

以上で大まかな登場人物がどの思想を寓意化したかの説明となる。
ここまででこのMADのエッセンスについては語ったので、ここから先は諸要素について解説を加える。


①霊山浄土
浄土にもいくつか種類がある。最も一般的なものは阿弥陀如来の極楽浄土。
ただ、宮沢賢治法華経においては釈尊を主とするので、釈尊仏国土である霊山浄土が正しい。霊山浄土自体は現世に存在するようにも思うが、ここでは背後世界(死後の世界)としている。


②宗教的モチーフ
仏教=蓮
キリスト教=十字架
ゾロアスター教ニーチェツァラトゥストラより)=拝火
無神論=自然

 

ステュクス
ギリシャ神話における冥府と現世の間に流れる川。
カロンが渡し守をする。思想としては三途の川と同等の存在。


④各人の苦悩
クロ:自己のために他己が犠牲となる苦悩
ざくろ:自己が自己であるが故の苦悩(罪)
燐:「無」に対しての苦悩(デキリコの描くように日常が意味を持たなくなる)
ノワール:思想が何もないことの空白への苦悩

 

⑤水曜日の朝、2時37分
「悪霊」でキリーロフが幸福を直観した時刻となる

 

⑥常不軽菩薩(サダーパリブータ)
法華経に規定される菩薩の一人。他者を軽んじず、他者から軽んじられても相手を敬った。そして法華経を説いた。宮沢賢治の精神支柱であり、「雨にも負けず」にある木偶の坊とは、常不軽の精神となる。


セザンヌ
セザンヌは複数の視点から見た物体を一つの絵に統合した。
これは考え方としては複数の遠近法を用いた絵画だ。
見る人の位置により変わる物体の形を統合することで普遍的な構成の絵画を作り上げた。これは人の考えの遠近法という考え方にも共通するのではないか。

 

サンチャゴ・デ・コンポステーラ
スペインにある大ヤコブの遺骸を所以とした大聖堂、
フランスよりピレネー山脈を越えた道を徒歩で巡礼する文化がある。
道の行程は銀河や星空に譬えられるが、謂れの割にはあらゆる宗教を受け入れる。
無宗教であっても何かの願掛けや心の整理のために歩くという。
今回の現世巡礼のモチーフとして取り上げた。

 

⑨四人の少女の影
ここで言う“影”は萩原朔太郎が、「月に吠える」から「青猫」において共通的に使われる“かげ”である。
この影は四人の少女の表象の裏にある詩的な本質を意味する。

 

⑩サン=レミ
サン=レミにてゴッホは糸杉と月の絵を描く。
ゴッホの書簡を見ても世評とは裏腹に比較的理性的な印象を受ける。
しかし、実際に彼が選んだのは宮沢賢治と同じ修羅の道だ。

おれはひとりの修羅なのだ
ZYPRESSEN いよいよ黒く
春と修羅より]

 

⑪新交響音楽
宮沢賢治の愛聴していたドヴォルザーク新世界より」は、
ドヴォルザークによる遠き異国のアメリカより祖国へのメッセージとしての曲である。
これは新世界から現世へのメッセージとなる。

 

⑫サウザンクロス
サウザンクロスは終着点ではなく、現世へ向かうために
通り過ぎるものとして置いている。

 

⑬色彩と本の間
ロマン主義においては色彩が重視された。
本は戯曲や文学の象徴である。

 

⑭画廊の間
ジェリコードラクロワ、フリードリヒ、ゴヤ等のロマン主義の絵画の間

 

タイタニック
銀河鉄道の夜」に登場する。死の象徴でもある。

 

⑯悪の気球と十字架の赤い空
あらゆる世界を取り巻く悪霊を黒い気球と見立てる。
地上の黒い十字架は腐敗したキリスト教観となる。

 

サロメの間
ざくろは首の盆はないが、モローの言う“運命の女”でもある。
二体の骨は愛を象徴する。

 

⑱砂漠世界
理を無視し、蝙蝠傘とミシンと解剖台がある風景の中に
ラクダと獅子が存在する。ニーチェによるとその先に幼子がいると言う。

 

⑲道化師と綱渡りの街
ツァラトゥストラ参照

 

⑳木と二人の男
マグリット的世界観における不条理世界。
ゴドーを待ちながら」参照

 

㉑印象の橋と河
モネの言う瞬間の自然美とする。

 

㉒水浴図
セザンヌの言う普遍の自然美とする。

 

㉓鴉
ポーの大鴉、古ければブリューゲルの時代の冥界と現世を繋ぐ鳥として象徴される

 

㉔到着時刻
統合的な概念の死を日付とし、各思想の死を時刻とした。

 

㉕蠍の火
自己犠牲の象徴。蠍の火へ辿り着くことが現世における幸福という思想

 

㉖叛逆天使の墜落(ブリューゲル
世界のあらゆる悪、悲しみ、歪みが悪魔の姿を借り、それを大いなる超越者が打ち砕く。

 

風力発電
その場を回るだけの無の象徴

 

㉘現実世界
ノワールの見たプラネタリウムと街と森のある現実の風景

 

㉙檻の中の少女と斧
ラスコリーニコフは投獄後に一度は否定したソーニャの信仰と和解し、
愛を理解する。「罪と罰」参照

 

㉚ラザロの復活(ジョット)
ラスコリーニコフは罪を打ち明ける前にソーニャに聖書の中の一節、
「ラザロの復活」を朗読させた。

 

㉛蛇との闘い
ツァラトゥストラにおいて蛇と闘い、少女は超人となろうとする。

 

㉜夕日と海

見つかったぞ!
何が? 永遠が。
それは太陽に溶ける
  海。
[永遠(ランボー)]


㉝ロスコ
夕日と海をニーチェより影響を受け、霊的な色彩にて表現したロスコをオマージュし作成した。


㉞最も静かな時
ツァラトゥストラは2部の最後、最も静かな時(夕刻)に
「もう一度、孤独に帰らなければならない」と命令される。
同様に4人の少女も孤独に帰り、幸福を求める旅を繰り返すことになる。

朝、キリーロフのように幸福を直感し、
夕、再び幸福を探し繰り返す

 

4. 宮沢賢治との関連性の整理

以降で宮沢賢治の考え方と合わせて整理をしていく。
2.3.において主要素は記載しているので「銀河鉄道の夜」の原点に関連する内容を箇条書きで記載する。

 

・1933年9月21日に宮沢賢治は亡くなり、この時点で彼の文学は歴史として残ることになった。消息を経った岩手軽便鉄道宮沢賢治自身を象徴する。

 

宮沢賢治の詩にゴッホを意識するZypressenというキーワードが頻出する。
また「農民芸術概要綱要」など、ミレーから始まりゴッホに至るまでの農民に対する美の流れのようなものが確かに存在すると感じる。故に賢治とゴッホの連関をMADにおいても表現した。

 

・各駅名などは実際に「銀河鉄道の夜」にて使われた駅名である。

 

ブルカニロ博士とジョバンニの会話を以下に記す。

「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ」

「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言いったんです」

「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい、そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ」

ブルカニロ博士は「あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい」と各人の幸福を探せと言う。

 

・蠍は本編にも登場するバルドラの野原にいた蠍、蠍はイタチに食べられず井戸に落ちて無駄に生を終えたことを後悔する。そして、いつか自分が美しい火となって燃えていることを理解する。

 


5.デュオニソス的芸術とアポロ的芸術について

宮沢賢治と思想の寓意としての観点以外に重視したことをいかに記載する。

今回、利用した楽曲は「I(wac)」「Dream of you(カタオカツグミ)」という曲だ。
この二曲はインストではあるが、音の流れとタイトルが合致し、映像がなくとも曲単体で深い感銘を与える曲のように思う。

ニーチェは「悲劇の誕生」にて、芸術をギリシャの神に当てはめ、アポロ的とデュオニソス的と分類した。
アポロの例示として「絵画」、デュオニソスの例示として「音楽」を挙げている。

このアポロの概念は、理性として「美」を感じるという見方、デュオニソスの概念は、理性なくして人の根源的な「美」を感じる見方と理解した。

例えば、絵で美しいものについて写実的だ、あるいは描かれたものがユニークだ、ということで評価された場合はそれは理性的かつ明示的なものとなるため、アポロ的芸術に該当する。
一方で音楽はドレミファソラシドの音のつながりや重なりが、なぜ人の感情を揺さぶるのかは理性では判断できない。これがデュオニソス的芸術の例となる。なぜなら、音楽における美は人の直観する根源的な美だからだ。

さらに音楽もアポロとデュオニソスに分解できると考えている。
歌においての歌詞が自然主義的であればアポロに分類され、詩的であればデュオニソスとなる。メロディは大きい音が感情を揺さぶるのはアポロであり、音同士の繋がりが揺さぶるのはデュオニソスと考える。

ニーチェアイスキュロスソフォクレスエウリピデスの三大悲劇のうち、
当初のアイスキュロスの時代はこのアポロ的芸術とデュオニソス的芸術が融和し、
ソクラテスを取り入れたエウリピデスにより融和が破壊され、悲劇を殺したと考えている。

現世巡礼交響曲においては、アポロ的な理性で見られる道筋も用意しているが、
一方でアイスキュロスのような形でデュオニソス的な見方も出来るように制作をしたいと考えた。

そのため、最大限アポロ的なものを排除したインストの楽曲を使い、映像においては、「色彩」を重視している。

絵画において、ルネサンスの時代より「素描派」「色彩派」の戦いが数世紀に渡って繰り広げられている。ボローニャ派とヴェネツィア派、バロックにおいてはプッサンルーベンス、19世紀フランスにおける新古典主義ロマン主義、これは言ってみればアポロ的な美とデュオニソス的な美の闘いと考えている。
つまり、素描派は基本的には理性と合致し、色彩派は理性ではない根源的な意志と合致するため、ギリシャ悲劇における両者の闘いが現代まで続いていると理解している。

色彩において、なぜ赤色が怒りや興奮を与えるのか、青は冷静さや知的さを感じさせるのか、黄色はユーモアや明るさを感じさせるのか、その理論については理性では説明が出来ないのである。ルドルフ・シュタイナーはドイツの神秘学の延長で色彩について意味を定義したが、これもデュオニソス的な美の延長と捉える。

上記の思考のもとに本作においては出来るだけ、自己が見た色彩がどのような印象を与えるのかを考えながら制作している。

 


6. 伝わらない作品に価値があるか

本論とは関係ないが、本作を作る上でとったスタンスを記載する。
これを書くとほぼ9割の人に否定されると思うが、「受け手にどう伝わるかを考えろ」
ということが真理だと思わずにこのMADを制作した。
この“どう”伝わるかは理性によりどのように理解されるかということと捉えているが、
5.で記載した通り、理性外の“何か”を重視することも必要だと捉えているからだ。
あらゆる創作においても真理は存在しない。

考えてもみれば、どうしてこうも世の中に現代アートがあふれていて彼らが一体何を考えて制作をしているのか。
ここは実は大衆の一般ロジックと離れた別のロジックが存在すると考えている。

そもそも、なぜ受け手を優先するかというとその方が大衆に理解されやすいからだ。
大衆に理解され、評価されることで自己への肯定感は上がり、自分の生命も創作を経て得た食事にて維持が出来る。
非常に合理的で分かりやすいロジックで、このロジックでは「職人になれ」と言う。
かつ、自己の内面に閉じ、他人に伝える気のない作品はどうしても独りよがりという烙印を押されがちになる。
しかし、他者に明確に伝わることの本質として、なぜそうでなくてはいけないのか?という本質論に立った時に驚くほど明確に説明することは難しくなる。

 

一方でこのロジックと反対のロジックが存在する。
それは大衆に理解されない特定の美を追求したいというものだ。

一例を出す。例えば、高い山があるが、我々は登頂した時に来光を目撃し深い感動を持つ。あるいは、100年以上をかけて建築された壮大な教会を見て、心を動かされる。
または、大海に夕日が沈んでいる光景を見て、途方もない永遠を知る。
この時に我々の心には何かしらの変化が生まれるが、当の見られる対象である本人たちは「我々に何らかの感動を与えよう」と思ってはいない。
高い山が人のことを考えてあの高さになったのか、教会が見られるためにあれだけの大きさが建築されたのか、大海も夕日もどちらも我々のことを考えて、この色を出そうとして時間を調整して沈んでいるわけでもあるまい。

上記の例はすべて目的が大衆になく、実在することが結果として我々に感動を与える。
その感動を与えるものを“美”と表現し、それを追求するがゆえに大衆理解を目的としないというロジックになる。

汎神論で言えば、世界=神が芸術家に対して、自己の美を表現させるように仕向けていると考えることもできる。
ゴッホにしろ、ゴーギャンにしろ、彼らは途方もない何かに駆り立てられていたというのは間違いなく事実で、現在の多くの現代アート作家なども世界に描かされていると考えている人間がいるのではないだろうか。

マタイ8:32

「イエスは彼らに『行け』と言われた。すると、彼らは出て行って豚に入った。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。」

ドストエフスキーにおいて、ロシアのあらゆる悪や罪がピョートルをはじめ、複数の人間に入り込みその悪が消滅することでロシアは本当の姿を取り戻すと言う。

これは、世界の一要素が悪霊として人に取り付いた、罪の共有のような考え方だが、
同じように世界の一要素としての“美”や“普遍”が誰かの姿を借りて、自己を再現するということはなかろうか。


以上が「受け手がどう思うかを考えろ。伝わるかを考えろ」に対しての反論構成になるのだが、遅かれ早かれMADも未来にはこの考え方も一定の派閥が出来るのではないかと思う。
なぜなら、15世紀は絵画は職人という考えが強かった。イタリアですらダヴィンチは自己の画業をアピールしなかった。
北方ドイツにおいて、職人から芸術家認知を広めたのはデューラーだ。それまで絵に芸術は求められなかった。
王侯、教会というクライアント中心の画業が19世紀前半のフランスでは崩壊した。
MADも結局は「動く“絵画”に“音楽”を付け、“文字”を付けられ表現された創作物」に過ぎない。

アンダーグラウンドな二次創作屋が何を言っているのか、という話で一笑されるとは思うが、現時点の自分の考えとして残しておきたいと思う。

「キオス島の虐殺」を描いたドラクロワは色遣いや絵の残虐性を非難され、「絵画の虐殺だ」と糾弾にあった。
オランピア」のマネは、西洋絵画史の中で未曽有のスキャンダルを起こした。

彼らの絵を見て現代人の我々が否定的に感ずるものは何もない。
ただ、今のスキャンダルに直すとすれば「凄まじく倫理的に問題があり多くの人間が眉を顰めるような作品を作る」ということと同じではないか。
今いかに自分たちが一つのしがらみを真理と信じ込み猛進しているということを認識していく。

 

7. 最後に

サクラノ刻で最後になると思ったMAD生活だが、まだ終わらずにいる。
結局10年続けたところでMADに真理などなく、あらゆる考えが正であるが、同時に誤でもある。激辛と激甘が両立しない中、激辛ユーザと激甘ユーザに満足される究極の美食は難しいわけで端から求めてはいない。
各々が自分の経験と思考により蓄積された真理をもとに、ある者は職人として大成し、
ある者は創作者として陰日向に終わり、一部の人間の慰めになる。
しかし、その創作物の価値に絶対的基準は無しと信じている。

唯一言えることは自分の道を過信せず、ある面では間違っていることを理解する。
その上で間違っている道が自分には正しいと思い、ひたすら進み続けることだ。
創作においてはそれも許される。
自分の今回の芸術論的なMAD思想も傍から見れば誤謬だらけの世迷言に過ぎないわけだが、それでも何かしらの価値があると思い、書いている。

恐らく、この編集後記も現時点での自分の理解能力の不足や大量の思想における誤謬が含まれるだろう。
これを書いている間でも他の美術書哲学書を読んで、より理解は進んで誤謬と捉えられる部分もあるが、そのままにしておく。
創作者はそこに誤謬が含まれていても、発展途上の思想でもどこかで区切りをつけて創作として外に出力しないと永遠に日の目を見ない。
悲劇の誕生」にしろ、あらゆる哲学書も数年後に筆者自身の自己否定の捕捉が追加されることも往々にしてある。

今回の編集後記も含めたMADそのものは対象をある程度限定している。
MADにある寓意や思想背景を理解した上で鑑賞者は何かを得るのか、
あるいは理解なしに、直観を以てして萩原朔太郎が詩集「月に吠える」の序文で書いているような“共通”を見るのか。

ツァラトゥストラにしろ、朔太郎にしろ、人は孤独だと言う。
しかし、その孤独の中に存在する確かな“共通”を創作物に取り込めるような何かを作れるように今後も精進していきたいと考えている。

「世界限界の向日葵と永劫回帰の櫻」について

 

◆はじめに

この記事はMADMAX2023に提出した「世界限界の向日葵と永劫回帰の櫻」について、解説を加える記事です。
本作は芸術を主題としたサクラノ刻を題材にしています。

 

そのため、通常のMAD以上に芸術的な性質を持たせています。

 

簡単に言えば、美術史、哲学、詩、音楽等の知識を持つ批評家や作り手が解説を加えることで初めて価値を持つMADと言えます。

 

これは芸術全般の特徴で、フォービスムが何かを理解せずにマティスを見ても良さが分からない、オランピアの元ネタを理解しなければマネの革新性に気付けない、と同様に視聴者に一定の知識を要求するMADです。

 

写真が登場するまでの絵画は遠近法、陰影のつけ方等の写実性が一定の評価基準になりえたので、絵の「上手さ」が評価されていました。しかし、その後、ポスト印象派、フォービスム、キュビスムドイツ表現主義、抽象表現主義シュールレアリスムポップアートと写実性での芸術評価は極めて困難になりました。

芸術を評価する上では作者の思想、かつ過去の美術史の軸を見てどの画家もしくは思想家、詩人、音楽家などの影響を受けて、何を表現したかを作家自身が解説するか、批評家が読み取ることが重要となっています。

 

 


◆本作の解説

Ⅰ 哲学、詩、絵画、音楽、宗教の融合

Ⅱ ゴーギャン絵画の模倣

Ⅲ 絵画的性質の付加 

Ⅳ 詩的性質の付加

Ⅴ 音楽的性質の付加

Ⅵ 哲学的性質の付加

Ⅶ 宗教的性質の付加

Ⅷ その他の特殊演出

 

 

◆Ⅰ 哲学、詩、絵画、音楽、宗教の融合

サクラノ刻は哲学、詩、絵画、音楽、宗教が高いレベルで融合している作品です。

すかぢ氏の作品は素晴らしき日々からサクラノ刻に至るまで、
ヴィトゲンシュタイン哲学の思想を根幹に、エミリー・ディキンソンの詩をなぞりながら、エリック・サティの音楽が流れる中で展開しているように思います。

 

同時代や同分野の作品を下地にして、自己の感性や思想をもとに作品を作るクリエイターが多い中で、すかぢ氏の作品は異時代、異分野の要素を取り入れて、かつ思想を練り込んだ作品のため、その特殊性からかなりのプレイヤーから支持されていると考えています。もちろん、すかぢ氏以外のライターでも過去の作品を読み込み自分の作品に活かされている方は多くいるとは思いますが、
すかぢ氏は別格と捉えています。


過去の人間の思想や芸術を下地に、自己の思想を追加もしくはそのアンチテーゼとしての思想を加えて、作品を作ることでより多くの人の心に響く作品が出来る…その結果がサクラノ刻の人気や魅力なのだと思います。

 

これはMADでも同様のことが言え、多くのMAD作者は同時代(2010年~2020年代)の
同分野(MV、PV、MAD、アニメOP)を下地に自己の感性でアレンジしながら制作を続けることが大半です。
それでも十二分に良い映像は出来ると思うのですが、異質なMADを作っていくにはこれだけでは足りないと思っています。

そのため、今回は異時代(1400年~1950年)の異分野(哲学、絵画、詩、音楽、宗教)を取り入れたMADを実験的に制作するということが最大の目的となりました。

 


◆Ⅱ-1 ゴーギャン絵画の模倣 ~なぜ、ゴーギャンか~

その上で、本作は、自分なりの「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか(ポール・ゴーギャン)」を目標地点に置きました。
なぜ、ゴーギャンかはサクラノ刻をプレイすることで理解できます。

 

草薙直哉は「自身の哲学を絵画に織り交ぜて表現する」、夏目圭は「画家自身の感情を絵画に混ぜ込む」という特徴があります。このスタイルは似ているようで全く異なり、「目に見えないもの」を表現する点では共通していますが、思想の根底が異なります。
両者の違いはゴーギャンゴッホの絵画に対する姿勢とほぼイコールです。

 

ゴーギャンゴッホが共同生活の末、破綻し最後にゴッホが片耳を切り落としゴーギャンに送りつけようとした逸話は有名ですが、そこには思想の不一致も大きかったと言われています。本編では、喧嘩別れはしませんが、直哉と圭は二人を意識したキャラクターでした。

 

また、別視点で見ると、素晴らしき日々より引用されているサマセット・モームの「月と6ペンス」こちらの物語に登場するチャールズ・ストリックランドはゴーギャンがモデルだと言われています。月は非日常、6ペンスは日常。月と6ペンスの最後はストリックランドの遺言により、彼の最大の大作である家の壁にかかれた壁画は家ごと燃やされます。ストリックランドの最期に駆け付けた医師だけがその「美」を目に焼き付けて物語は終わります。


サクラノ刻で恩田放哉が絵を燃やしたのも、同様に直哉の絵画が人々に感動を与えて焼失したのも、月と6ペンスが下地になっているのではないかと
思いながらテキストを読み進めていました。

 

すかぢ氏にとっての草薙直哉は自己の思想の投影。もう一人のストリックランド。そして、ゴーギャン。そのため、サクラノ刻でMADを作るのであればゴーギャンの思想を忠実に再現した冒険したMADを作るべきだと思い、ゴーギャンの特徴を取り入れたMADを作ろうと考えました。

 

 


◆Ⅱ-2 ゴーギャン絵画の模倣 ~ゴーギャン絵画の特徴~
下記の三つが一般的にゴーギャン絵画でよく言われる特徴であり、今回のMADで意識したポイントです。

 

①総合主義
「説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)」が例として取り上げられることが多いですが、空想の世界(ヤコブと天使の闘い)と現実の世界(説教を聞いた人)が同じ画面上にいます。これは当時としては新しいことで、それまでは写実主義は現実の世界のみを画面に投影し、象徴主義は空想の世界のみを画面に投影しているように、二つの世界を混ぜた作品はこれより前にはありませんでした。(探せばあるかもですが…
   
この総合主義に倣って、空想の世界(サクラノ刻)と現実の世界(歴史上の哲学者、詩人、画家、音楽家)を同じ作品上で表現することで、新しいMADとしたいと考えて制作しています。   

 

②プリミティブ
ゴーギャンは先進的なフランスを起点とした世界ではなく、よりプリミティブ(原始的)なタヒチを理想郷として描きました。ゴーギャンのこの試みは成功し(彼自身が自殺未遂までしているので本人は成功と捉えていないかもしれませんが)、タヒチの人々を描くことで今までになかった表現に辿り着いています。
今回はゴーギャンに倣って、MADの映像表現におけるキャラクターアニメーション、3D空間の多用を排斥し、カメラでも動きは付けずに、より原始的な表現としています。


③哲学、宗教と絵画の融合
ゴーギャン絵画の特徴として、ゴーギャン自身の哲学や宗教観が盛り込まれているという点があります。「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」は死生観、輪廻転生を表し、トマス・カーライルの「衣服哲学」よりタイトルをとったという説もあります。タヒチの人間を聖母子に見立てた「マリア礼拝」、「ヤコブ・メイエル・デ・ハーンの肖像」には、ミルトンの「失楽園」と先ほど挙げた「衣服哲学」が描き込まれています。
   
この手法を真似て、自分の今回のMADでは哲学、宗教、詩、音楽、絵画を混ぜ込んだMADにしようと考えました。

 

 


Ⅲ 絵画的性質の付加 

 

①絵画のオマージュについて

マネは「草上の昼食」「オランピア」「フォリー・ベルジェールのバー」など、元ネタがある絵を描いています。例えば、ティツィアーノやベラスケスを参考に自分の時代に合わせた表現を試みています。

「草上の昼食」 
元ネタ「田園の合奏」 ティツィアーノ  「パリスの審判」 ライモンディ


オランピア
元ネタ「ウルビーノのヴィーナス」 ティツィアーノ


フォリー・ベルジェールのバー」
元ネタ「ラス・メニーナス」 ベラスケス

今回のMADではマネや過去の西洋絵画に倣って、引用もしくはオマージュを取り入れています。

 

・(0:01)我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか ポール・ゴーギャン
本編のテーマとなります。

 

・(0:08)オランピア エドゥアール・マネ
本編に登場する絵画です。サクラノ詩では贋作という観点でこの作品が一つのシンボルとなります。

 

・(0:11)印象・日の出 クロード・モネ
本編に登場する絵画です。泥棒カササギの章でルイ・ルロワに批判されたという逸話が語られます。

 

・(0:15)ひまわり フィンセント・ファン・ゴッホ
本編で圭が描いたひまわりはゴッホのオマージュと思われます。


・(0:17)醍醐 奥村土牛
本編で登場する画家です。桜の絵画で有名です。

 

・(0:30)自画像 ポール・ゴーギャン
ゴーギャンが直哉に向かって語り掛けるイメージで映像を作っています。

 

・(0:32)ブラン氏の肖像 エドゥアール・マネ
草薙健一郎はマネと同様の指導者としての位置付けだったのではないかと思います。
マネは印象派の指導者でした。ここでは指導者としての健一郎が登場します。

・(0:32)自画像 エドゥアール・マネ

  

・(0:41)大使たち  ハンス・ホルバイン
引き延ばされた髑髏、棚の上の天球儀、下段の地球儀は地獄、天国、現世を指します。若い二人と死を隣り合わせで描くことでメメント・モリを表しています。

 

・(0:41)死の舞踏 ハンス・ホルバイン
圭の傍らに架けられている絵はホルバインの死の舞踏の絵となります。
ペスト流行時には死は平等というところが救済となり、流行った画題です。
ここでは圭の身に迫っている死を表します。

 

・(1:03)スフィンクス、ミロのヴィーナス、キリスト降架(ルーベンス
Ⅵ 哲学的性質の付加で解説します。

 

・(1:04)古靴 フィンセント・ファン・ゴッホ
Ⅵ 哲学的性質の付加で解説します。

 

・(1:06)モナ・リザ
Ⅵ 哲学的性質の付加で解説します。  

 

・(1:12)1873年ウィーン万国博覧会ロシア館の海軍部の建物の設計図 ヴィクトル・ハルトマン

Ⅴ 音楽的性質の付加で解説します。 

 

・(1:12)バレエ《トリブィ》のための衣裳デザイン ヴィクトル・ハルトマン
Ⅴ 音楽的性質の付加で解説します。     

  

・(1:15)カラスのいる麦畑 フィンセント・ファン・ゴッホ
ゴッホの自殺(?)前の晩年の作品。麦畑の奥には死の象徴であるカラスが群れを作っています。心鈴の絵画にはミサゴとカラス(圭の死)が付きまといます。

 

・(1:22)フォリー・ベルジェールのバー エドゥアール・マネ
鏡を活用したマネの晩年の大作、給仕の後ろにある鏡は対面の人間を映し出します。鏡に映る給仕は少し不自然な角度に見えます。今回はワイン好きの静流と直哉の会話シーンということで使っています。ワインの作られた年は1999、2012、2015です。

 

・(1:26)悪の華の挿絵 オディロン・ルドン
Ⅳ 詩的性質の付加で解説します。

 

・(1:29)叫び エドヴァルト・ムンク
ムンクの有名な絵画およびムンクによって加えられたコメントを引用しています。

 

・(1:30)No.シリーズ マーク・ロスコ
カラーフィールドペインティングとして有名です。千葉の川村記念美術館のロスコ―ルームでは神秘的な体験が出来るそうです。今回は圭の「大きな音が鳴り、空と大地が混ざる」というセリフに合わせて展開させています。

 

・(1:31)黒の正方形  カジミール・マレーヴィチ
抽象表現主義。直哉はひたすら黒を塗った。これは無対象を意味しています。
対象物ではなく、別の目に見えない何かを表現しようとしたという意味としています。

 

・(1:46)笑う自画像 リヒャルト・ゲルストル
狂気の表現として、ゲルストルの絵画を参考に作成しています。

 

・(1:51~1:54)
多すぎるので割愛しますが、ルネサンス以降の絵画をほぼ時代やグループ別でまとめながら登場させています。大体100枚くらい使っています。

  

・(1:56)ウルビーノのヴィーナス ティツィアーノ・ヴェチェッリオ
マネのオランピアのもととなった作品です。オランピアでは足元にいるのは猫ですが、こちらでは犬です。この後のオランピアは草薙健一郎の象徴的な絵画で、オランピアに目を開けさせる前にオマージュもとにも目を開けさせています。

 

・(1:58)生きる喜び アンリ・マティス
楽園をフォービスムで描いたマティスの作品です。今回は直哉が見る楽園の隠喩としています。

 

・(2:00)デカルコマニー ルネ・マグリット
直哉の断筆、画家としての停滞を主役不在の切り抜きとしています。
切り抜きの向こうには生きる喜びが見えています。

 

・(2:01)ゴルコンダ ルネ・マグリット
よく見ると大量の人間の顔は一人一人違います。一方で全体としては集団として見られてしまい個は喪失します。サクラノ刻の新生美術部の個の喪失に当てています。

 

・(2:02)水平線の神秘 ルネ・マグリット
三人にとっての月はまるで違います。同じ月であっても三人が別の月を見ています。それは三人が見ている方向が違うためです。

 

・(2:03)暗殺者危うし ルネ・マグリット
手前は未来、奥へ行くほど過去を指します。奥の健一郎と手前の紗季、礼次郎の時空は違います。
          
・(2:03)死霊は見ている ポール・ゴーギャン
ゴーギャンタヒチで現地の死霊が少女を見ている絵画を描いています。
こちらでは死期が近い健一郎を死霊が見つめているという隠喩となります。

 

・(2:05)複製禁止 ルネ・マグリット
鏡は物体を転写できますが、人間の心までは転写が出来ません。笑顔の静流は鏡では後ろめたさを持ち、怒り顔の麗華は鏡では笑顔を見せます。それは贋作を見ている静流は後ろめたさを感じているが、麗華には本物と見えているからです。一方で鏡は物体である雪景鵲図花瓶 だけは鏡に正確に転写されます

 

・(2:05)エマオの晩餐 ハン・ファン・メーヘレン
ナチスフェルメールと偽って贋作を売りつけたメ―ヘレンの絵を置いています。彼はナチスから絵画を取り戻したことで国民的英雄となりました。ここでは贋作という意味です。

 

・(2:05)真珠の耳飾りの少女 ヨハネス・フェルメール
メ―ヘレンの絵画との対比で持ってきています。ここでは真作という意味です。
  
・(2:07)イメージの裏切り ルネ・マグリット
マグリットはパイプの絵を描き、これは「パイプではない」と添えました。つまりパイプではなく、絵だからです。寧を描いた心鈴の絵はどこまでも寧の性質を表しますが、それは絵であり本人ではないという意味となります。

 

・(2:08)恋人たち ルネ・マグリット
マグリットの不穏な絵画と異なり、優美と里奈の二人は顔を見せあっています。

 

・(2:09)解体されるために最後の停泊地に曳かれていく戦艦テメレール号 
     ウィリアム・ターナー
戦艦テレメールは時代を終え、新たに産業革命により発明された蒸気船がテレメールを曳いていく絵です。圭が生きた時代は終わり、新たに心鈴の時代を迎えようとしています。

 

・(2:09)死の島 アルノルト・ベックリン
ベックリンの作品で死を連想させる絵画です。ここでは圭の未来を示しています。

 

・(2:10)記憶の固執 サルバトール・ダリ
圭と心鈴の時間は終わり、圭の時間は溶けた時計のように止まります。

 

・(2:11)人間の条件 ルネ・マグリット
壁にかかっている絵は主観世界、壁の向こうは客観世界に当たります。
心鈴の頭の中の経験が絵画へと出力されていきます。

 

・(2:12)人の子 ルネ・マグリット
圭がどんな顔をしているのか、向日葵に覆い隠されていて見えません。

 

・(2:12)大家族 ルネ・マグリット
マグリットは鳥から青空を連想するとしたそうです。
曇り空の絶望の中で燕からは希望の青空を連想させます。

 

・(2:13)NEVER MORE ポール・ゴーギャン
Never moreというテキストはゴーギャンの絵画から着想を得ています。
元を辿るとエドガー・アラン・ポーの大鴉という詩となります。

 

・(2:15)サント・ヴィクトワール山 ポール・セザンヌ
セザンヌは普遍性を意識しました。それは永遠の相への入り口を隠喩としています。
  
・(2:15)リンゴとオレンジ ポール・セザンヌ
セザンヌの絵は複数の視点からの静物を統合することで普遍性を表現しました。
心鈴、真琴、寧はそれぞれ別の視点から見られているため、本来このような構図にはなりえません。これは絵画、映像であるため表現できる普遍性です。

 

・(2:19)生命のダンス エドヴァルト・ムンク
永遠の相では生の女と死を迎えつつある女は融合するという意味です。
すなわち永遠の相において、生も死もありません。
  
・(2:19)月光 エドヴァルト・ムンク
死の象徴である月と生の象徴である太陽も融合します。

・(2:19)太陽 エドヴァルト・ムンク

 

・(2:33)コリウールの開いた窓 アンリ・マティス
圭は色彩の向こうの果てへ旅立とうとしています。窓からは沢山の向日葵が見えています。

 

・(2:41)ラス・メニーナス ディエゴ・ベラスケス
ベラスケスはラス・メニーナスで鏡によるトリックを利用しています。
この絵に描かれているのはマルガリータ王女ですが、実はこのマルガリータ王女を見ている国王夫妻の視点がテーマであるということが鏡により分かるものとなります。
「この10年はどうだった?」と聞かれた直哉の視線の先には、サクラノ刻で交流した人々の姿があります。鏡に映るのは直哉と藍。これは直哉と藍の視点となります。

 

・(2:47)ピエタ ミケランジェロ・ブオナローティ
藍は聖母として描かれています。今回はフォービスム的に赤、黄、青を基調としています。

 

・(3:02)サロメの挿絵 オーブリー・ビアズリー
オスカー・ワイルドサロメの挿絵で有名なピアズリー。彼の挿絵のサロメのイメージはギュスターヴ・モローの「出現」が由来です。モローがサロメファム・ファタール(運命の女)として捉え何枚も絵を描いており、それが今日のサロメ像に繋がっています。この観点で言えば、心鈴は本人にその気がなくとも、人の人生を変えてしまうファム・ファタールであり、運命の象徴となります。

 

・(3:30-)女性の三相 エドヴァルト・ムンク   
     女性の三時代 グスタフ・クリムト
稟、真琴、水菜と健一郎、藍と直哉の三時代を一つの絵として載せています。

 

 

②キャラクターを画家として意識する

各キャラクターを映像として表現する際に画家のモデルイメージをもとに作成しています。

草薙直哉 ポール・ゴーギャン
夏目圭 フィンセント・ファン・ゴッホ
御桜稟 モデルなし(表現上は佐伯祐三、モーリス・ユトリロ、リヒャルト・ゲルストルを意識)
長山香菜 アンリ・ルソー等の素朴派
本間心鈴 パブロ・ピカソアンリ・マティス等のキュビスム、フォービスム
氷川里奈 エドヴァルト・ムンク等の象徴主義
鳥谷真琴、静流 クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワール等の印象派

 

少し解説を加えます。

 


美の神としての存在のため、モデルや絵画上の特性はあまりないと感じました。
ただ、稟自身が美の狂気を表現するキャラクターでもあるため、狂気的な画家を意識して画面作りを行っています。画家の生い立ちは割愛しますが、三人ともかなり壮絶な人生を辿っているためか絵に異常な力があります。

 

香菜
凡人代表ということで日曜画家で素朴派と言われているルソーをイメージしながら、一部の絵作りをしています。

 

心鈴
天才代表ということでピカソマティスをイメージしつつ絵作りをしています。実際の心鈴さんはもう少し写実寄りの絵を描くような気がしていますが、天才っぽさを出したかったので…。

 

里奈
分かりやすく概念を描く画家という描写がされているので象徴主義的に冬虫夏草や狼、キノコなどの象徴を加えています。

 

真琴、静流

印象派のように目に見える現実を見据えた二人だと思います。

 

また、キャラクターとは別に「普遍性」、後述する「永遠の相」へ繋がる画家としてポール・セザンヌを意識しています。セザンヌは「自然を円筒形と球体と円錐体で捉えなさい」という言葉が有名な近代絵画の父ですが、色々な解説を読んでいると、結局は印象派のような一瞬の時ではなく永遠に普遍性のある林檎を描きたかったのだと理解しました。そのため、永遠の相の前にセザンヌ的な映像を設置しています。

 

 

西洋美術史の流れを意識する

 

全体の流れとして、西洋美術史の流れを意識しながら作成しています。

0:47  バロック
0:52ー 写実主義
1:14ー フォービスム、クロワゾニスム、印象派
1:34ー 表現主義象徴主義
2:00ー シュールレアリスム

一つの動画で西洋美術が流れるように作りたかったというのが想いにあります。

 

 

 

◆Ⅳ 詩的性質の付加

芸術において画家、音楽家が詩を題材にした作品を作ることは一般的です。

サクラノ刻の本編でも出てきたマラルメですが、ドビュッシーラヴェルによりマラルメの詩を題材に作曲した「マラルメの3つの詩」や「牧神の午後への前奏曲」などが作られています。他にもドラクロワの絵にボードレールは傾倒し、そのボードレールマラルメが傾倒し、マラルメの詩にゴーギャンがインスピレーションを受ける…といったように画家と詩人は強いかかわりを持ちます。

 

今回はサクラノ刻で登場した詩人を中心に、19世紀の象徴主義のフランス詩人やアメリカ詩人を加えて本編の性質を表現したシーンを取り入れています。

 


①エミリー・ディキンソン
エミリー・ディキンソンはアメリカでは大変有名な詩人で、生前は無名でしたが、死後に爆発的な人気が出た詩人の一人です。これはゴッホ宮沢賢治などにも似ている部分があるかもしれません。すかぢ氏の作品の根底にはいつもエミリー・ディキンソンがいるように思います。
  
今回、ディキンソンの詩は一番多く登場させています。
  
・脳は空より広い(3:14)
・わたしが死へと立ち止まれなかったので(0:39)
・あなたが秋に訪れるのなら(2:14)
その他にもルネ・マグリットをテーマとした箇所では全てディキンソンの詩を引用しています。

「あなたが秋に訪れるのなら」は後述の「Never More」への対抗として燕が「Ever More(いつか、永遠に)」と答えているシーンで利用しています。このMADを作るために色々と調べていて気付いたのですが、アメリカのシンガーソングライターのテイラー・スウィフトさんが2020年にリリースしたアルバムも「ever more」というタイトルでファンの間ではディキンソンに当てて作られたものではないかと言われているそうです。
 
「あなたが秋に訪れるのなら」の一節で、

 If certain, when this life was out  もし、この世界での生が尽きた時
 That yours and mine should be    あなたと私の生があるならば
 I'd toss it yonder, like a Rind,  私は「この世界の生」を果物の皮のように破り捨て
 And take Eternity   「永遠」をとるでしょう
 
というものがあり、ディキンソンの二人の魂の出会いが「永遠」を表します。
これは直哉と圭の永遠を表し、永遠の相と繋ぐために普遍性のセザンヌの林檎と剥かれた林檎の皮を接続しています。
  

 

ステファヌ・マラルメ
ステファヌ・マラルメはフランスの詩人であり、フランスの代表的な詩人としては真っ先に名前が上がります。マラルメは初期にボードレールの詩を読み、その詩のコピーを自分の詩に添えたと言います。彼の詩は音楽的と言われており、フランス語が分からない私は日本語でした意味が分からないのが本当に残念ではあるのですが、フランス語の音の響きはまさに音楽と言えるのかもしれません。

  ・乾杯
  ・ヘロディヤード
  ・青空

乾杯はゴーギャンタヒチの船出を連想させるものとして冒頭で登場させました。
このMADとしてもタイトル前の船出という意味合いも込めて引用しています。ヘロディヤードはヘロデ王の妻であり王妃すなわち、サロメの母親を指します。今回心鈴が絵を描くシーンでの仏文はヘロディヤードの一節です。サロメ象徴主義でよく使われるテーマでモローからマラルメオスカー・ワイルド、ピアズリーと大人気の主題です。

ロディアは洗礼者ヨハネを疎ましく思い、いつか処刑したいと考えていた一方で、ヘロデ王は聖人と呼ばれるヨハネを殺すことは躊躇っていました。
ある日サロメが余興で踊り、感動した父ヘロデ王は「望みに何が欲しい?」と問います。この時にへロディアサロメに入れ知恵をして「聖ヨハネの首と言いなさい」と言い、サロメは従いヘロデ王に「聖ヨハネの首を」と言います。結果、ヘロデ王は悩んだ末、娘のお願いを叶えることして、聖ヨハネは斬首されます。

この詩ではヘロディヤードと言っていますが、王妃のことではなくサロメのことを指します。マラルメは「虚無の後に美を見つけた」と言いましたが、心鈴の人生に強くリンクしている思想です。

また、青空は稟の狂気を表現しているシーンで佐伯祐三の書き文字表現のオマージュでマラルメの詩が使えないかと思い、青空という詩を入れています。ヘロディヤードにも青空と言う一節がありますが、マラルメにとって青空は「理想」でした。
これは詩人が青空という「理想」に挫折し、青空を覆い隠すように叫ぶ詩です。美という理想で多く死んでいった画家もいると思います。美を体現している稟だからこそふさわしい詩だと思いました。

 

 

宮沢賢治
宮沢賢治サクラノ詩でテーマとなった詩人です。サクラノ詩の「春と修羅」に因果交流電燈という賢治独自の概念が登場しますが、これが「永遠の相」や仏教思想の「重々帝網」と近い考え方の詩なのではないかと思います。
   
春と修羅
前半のサビ部分で春と修羅の一節を引用することで詩的な絵作りが出来ないか試みています。   

(1:15)
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね

青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ

(1:16)
ZYPRESSEN 春のいちれつ
   
後半(2:19)で春と修羅を引用しているパートは「永遠の相」を再現しているものとなっています。ここは生死もなく、時間もなく、有も無もない世界。その中で直哉は圭と再会を果たします。生死がない世界のため、現実世界のキャラクターが大人になったり子供になったり、死んだはずの人がその世界にはいます。

  


シャルル・ボードレール
エドガー・アラン・ポーのフランス語訳でも有名ですが、最も有名な著作としては「悪の華」かと思います。「悪の華」はマラルメの源流となった作品の一つで当時の詩人や音楽家、画家などあらゆる芸術に大きな影響を与えました。

悪の華

今回、ボードレールからは二つ引用しています。
冒頭の心鈴の深淵の目の表現、および恩田放哉の思考に一部ある「悪」とも言える内面で悪の華の挿絵を描いたルドンの絵をもとに自筆で似た絵を描いて投入しています。

 


エドガー・アラン・ポー
アメリカの大詩人であり、作家です。ボードレールはポーの詩に感銘を受けて、フランス語訳をしており、フランスの象徴派詩人へ大きな影響を与えています。ポーがいなければ、ボードレール悪の華を出さず、マラルメも詩人を志さなかったかもしれません。

・大鴉(2:13)

今回はポーから、「大鴉」という詩の一節「Never More」を引用しています。


これは主人公の男が恋人レノーアを失い嘆き悲しんでいると突然、大鴉が入ってくるという詩です。男が何を問いかけても鴉は「Never More(もう二度とない)」と答えます。主人公が最後に「天国で恋人と会えるか?」と尋ねても、鴉は無情にも「Never More」と言うだけです。「大鴉」はとても人気がある詩で、挿絵をマネが書いています。この一節と同タイトルの詩をヴェルレーヌも書いており、ゴーギャンの唯一の英語タイトルの作品「Never More」もこの詩より、インスピレーションを受けていると言われています。ここでは、圭との再会に対して鴉が「Never More」と言っているという演出になります。


ポール・ヴェルレーヌ
フランスでは必ず、アルチュール・ランボーとセットにして語られる詩人です。ヴェルレーヌランボーの二人の放浪はゴーギャンゴッホの共同生活以上に密接でそこにはヴェルレーヌからランボーに対する「愛」があったことは有名です。

 

サクラノ刻の放哉は面白いキャラクターで、彼は悪役でありながらも一種の強い魅力があります。そんな彼は時代が違えば、ランボーヴェルレーヌのように健一郎と放浪していたのかもしれません。


ヴェルレーヌゴーギャンゴッホ同様にランボーと最後は喧嘩別れに終わり拳銃でランボーの手を打ち抜きます。そのことが原因で彼は牢屋に入ります。恩田放哉も絵を燃やしたことで牢屋に入りますが、同性愛と合わせて境遇がとても似ていると感じています。彼がヴェルレーヌをもとにしているかは、すかぢ氏の頭を覗かないと分かりませんが、とても似ている共通項だと感じています。ついでにサクラノ詩から引き続き登場のオスカー・ワイルドも同性愛で逮捕されて牢に入れられています。

    
・Never More(2:13)
・涙(3:02)

 


⑦その他、引用した詩
・春日狂想 中原中也(2:56)
・永遠 アルチュール・ランボー(2:59)
・歩み ポール・ヴァレリー(2:47)
・十字架 ハルト・レーベン(1:27)


Ⅴ 音楽的性質の付加

サクラノ刻は各章のタイトルで音楽が使われています。
数は少ないですが、本作ではいくつかの楽曲を引用しています。


・(1:12)展覧会の絵 モデスト・ムソルグスキー
 展覧会の絵ムソルグスキーが友人のヴィクトル・ハルトマンの死後にその遺作展を歩く様子から作られています。ヴィクトル・ハルトマンの絵の傍らで死んだ圭の絵を見ている直哉がいます。

 

・(1:23)泥棒かささぎ ジョアキーノ・ロッシーニ
本編で登場するオペラ「泥棒かささぎ」の引用となります。


・(1:26)禿山の一夜 モデスト・ムソルグスキー
イワン・クパーラの前夜が美の呪われた宿命を体現していると恩田放哉は言います。聖ヨハネの前夜に妖女からの取引に応じ、世話になっている主人の子供を殺すという悪夢。妖女は離れた首から血をすすります。

 
・(1:27)月に憑かれたピエロ アルノルト・シェーンベルク
月は死の象徴であり、非日常の象徴であると捉えています。シェーンベルクは無調、十二音技法を作り上げており、現代音楽の様々な作曲家に影響を与えました。
月に憑かれたピエロは当初は、ラヴェルの「ステファヌ・マラルメの三つの詩」と同時に公演される予定でしたが、実現はしませんでした。今回は月に憑かれたピエロの中の「十字架」という詩を基に画面を作っています。詩人、画家が大衆により磔となり、血を流します。

 

・(2:56)ピタゴラスボエティウス
古代ギリシャ哲学者で音楽について言及したピタゴラス。その後、ボエティウスは更に音楽と哲学を関連付けました。
  
・(2:57-2:58)子供の情景 詩人は語る ロベルト・シューマン
本編では心鈴と寧の章で使われましたが、あえて最終部分で使っています。オーケストラの指揮者をMADで登場させていますが、オーケストラはあるものの、どちらかと言えば静かなピアノ曲と言うのがスタンダードです。曲集は子供の情景ですが、それは子供に姿を変えていた詩人本人です。その詩人が最後に今までのお話を語るというストーリーになっています。直哉、藍、稟の大人の姿と子供の姿が同時にこのオーケストラを見ています。
 

 

 

Ⅵ 哲学的性質の付加

 今回は自分なりに哲学要素を整理して作成しています。今回、重要となる哲学者はこの三人です。

 ①ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン
 ②ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
 ③マルティン・ハイデッカー

 


ヴィトゲンシュタイン
本編で出てくる「語りえぬものについては沈黙しなければならない」はヴィトゲンシュタインの哲学の柱の一つと認識しています。死、存在、それらは語ることが出来ない。語りえないものは神秘である。哲学の命題となっている死や存在を論理の外にあるものとして語りえぬものとしています。
今回は「美」が語りえるものなのかというものもテーマに含まれていると考えていますが、確かに「美」は語りえないものだと私は思います。無駄なお喋りは身体を濁らす、これもヴィトゲンシュタインの哲学からとっているのかなと思いながら本編を読んでいました。
   
また、ヴィトゲンシュタインの哲学として「永遠の相」という概念もあります。正確にはスピノザが唱えた考え方です。このあたりは勉強しながらなので間違ったことを言っているかもしれません。スピノザの言う「永遠」は時間的な区分が存在しないものです。あらゆる時間を超越した普遍的な神の視点で世界を見る事を永遠の相のもとに見る、と言っています。ヴィトゲンシュタインは「芸術作品とは、永遠の相の下に見られた対象である。そしてよい生とは、永遠の相のもとに見られた世界である」と表現しています。サクラノ刻で語られたショーヴェ洞窟の例などは過去の時間を超越して現在の我々に「美」を追体験させるというものでした。
つまり、芸術があらゆる時間を超越し神の視点で「美」を見ることが出来る手段であり、そこに神秘性を感じる事をよい生と言っているのかなと認識しました。
 

 

ヘーゲル
本編のヘーゲルで出てくる芸術終焉論は芸術を「象徴芸術」「古典芸術」「ロマン芸術」の三段階に分けています。象徴芸術はいわゆる、エジプト文明などのイメージ、スフィンクスとかファラオとかです。古典芸術は古代ギリシャ芸術を指しています。
いわゆるサモトラケのニケやミロのヴィーナスといった神の彫刻が主体です。最後のロマン芸術はいわゆるキリスト教を中心としたイコンや祭壇画などの芸術です。これらの芸術は全て神と一体化しています。スフィンクスは神ですし、ニケも神ですし、十字架に張り付けられるキリストも神の再現です。しかし、ヘーゲルの時代の芸術は既にこのような芸術とは離れたものになっていきます。フランドル絵画の肖像画などは神を表しているわけではありません。これをヘーゲルの芸術終焉論と呼んでいます。
ヘーゲルはこの三段階の芸術のうち古代ギリシャ芸術を最も評価していたそうです。同じく古代ギリシャを詩の題材としたヘルダーリンとも交友関係があり、ここにも詩と哲学の相関性が見えてくるように思います。

 


③ハイデッカー
ヘーゲルの芸術終焉論に対して、ゴッホの古靴やギリシャ神殿の例を挙げて、芸術を神とは別の方面でとらえようとしたのがハイデッカーです。それはヘーゲルの芸術終焉を否定し、芸術を延命させようとする行為だったとサクラノ刻でも語られています。
ヘーゲルの主張では、古靴を見て連想する重労働をしている農夫のイメージ、これが「世界」であるが、一方で直接重労働をしている労働者である「大地」は描かれていない。芸術は隠された明示されない「大地」を「世界」として開示する闘争だ…と言っています。

 

 


今回は上記の三哲学者を意識して下記の構成としています。

 

1番転調部(1:03ー1:04)
ヘーゲルの芸術終焉論、それを否定するハイデッカーの芸術の根源


恩田放哉のセリフ(1:06)
:「芸術はとうの昔に終焉しているよ」にて、古典芸術としての古代ギリシャを連想させるモナリザのアルカイック・スマイルを設置


1番サビ前(1:11)
ヴィトゲンシュタインの語りえぬものとして「美」は存在するとヘーゲル、ハイデッカーを否定


1番サビ(1:12)
:圭の絵を前に直哉は、語りえぬ「美」を示そうとする。以降は芸術を作品で語る


2:18以降:永遠の相のもとに見る世界をイメージ(直哉にとっての限界を超えた絵画)

 

 


Ⅶ 宗教的性質の付加

シラノ・ド・ベルジュラック
今回のサクラノ刻ではシラノ・ド・ベルジュラックを模した神(2:19)を登場させています。これはキリスト教や仏教における神ではなく、概念そのものとなります。
自作のMADでは過去に作品に沿った神を登場させています。

 

・終末思想の夜と幸福の向日葵畑 シラノ・ド・ベルジュラック(永遠の相の神)
・夏蝶のピノキオ 操り人形を操る仮面(運命論の神)
・不条理狂詩曲 アルベール・カミュ(不条理の神)
・Waltz for the End トーマス・アルバー・エジソン(人間という存在を見る神)

 

シラノ・ド・ベルジュラックは剣術化であり作家であり、哲学者、理学者でもありました。恐らくゲーテダ・ヴィンチのような万能型の天才だったのだと思います。

シラノのフォトコラージュについてはルイス・フロイスのジャバウォッキーがもとです。ルイス・フロイスはいくつかの言語を組み合わせたカバン語という独自言語を登場させているそうです。
(このあたりは鳩麦ゆうさんという方が大変分かりやすい動画を作成されているのでそれを見るといいかもしれません)
カバン語のように時計、向日葵、目、ピアノ、ペン、月を融合させた存在です。

このシラノ・ド・ベルジュラック素晴らしき日々のMADから登場させているシンボル的な存在であり、今回は永遠の相への導き手として入れています。


②仏教思想
ワンシーンですが、2:16に重々帝網のイメージを入れています。
重々帝網は帝釈天の宮殿を飾る網で網の結び目に球体の鏡が釣り下がっているそうです。鏡同士はお互いの世界を映し出し、それが世界の成り立ちであると。
これは因果交流電燈と近い概念と妄想しながらサクラノ刻を読み進めていました。

 


Ⅷ その他の特殊演出

①言語的なトランジション
1:03-1:04はヘーゲルの芸術終焉論およびハイデッカーの芸術の根源の知識があった場合に滑らかに繋がっているように見えます。
このように意味や言語を理解すれば滑らかに繋がるトランジションを設けています。

(1:03-1:04)芸術終焉論 → 芸術の根源


(1:55-1:56)ウルビーノのヴィーナス(マネのオランピアのオマージュ元)→オランピア


(2:11-2:15) 中原中也(愛する娘が無くなり春日狂想を作成)→NEVER MORE(大鴉は死んだ恋人を悼む男に「二度とない」と答える)→EVER MORE(「いつも、永遠に」と燕が言う。傍らに剥けた林檎の皮)→セザンヌ(林檎の静物画で普遍性を表現)


(3:02-3:04)ピアズリー(オスカー・ワイルドに認められサロメの挿絵を描く)→牢屋(オスカー・ワイルドは同性愛により逮捕される)→オスカー・ワイルド幸福の王子
→燕(幸福の王子に登場する)→夏目圭(燕は夏目圭の寓意)


②永遠の相の演出
圭と直哉が出会うシーンのインスピレーションは「フランケン・ふらん」という漫画からとっています。主人公のふらんは天才外科医なのですが、患者を治すために行う手術が非人道的。(芋虫の体に人の頭部を移植したり、二人の人間を半分ずつ繋げたりと…)しかし、ふらん自身は、ひたすらいい子で善意や彼女にとっての常識の範囲内で行動しているというシュールな漫画です。
今回の演出は最終話で、ふらんが潜水艇に閉じ込められた話がモチーフです。
事故で潜水艇に閉じ込められたふらんは救助を待つ間に眠ってしまうのですが、
その夢の中で今まで登場したキャラクターがカーテンコールとして全員出てくるというお話です。最も印象的なのが、最後にふらんがずっと会いたいと思っていたが、消息が分からない博士に夢の中で会えるというシーンでした。
とてもいいお話なので是非読んでいただきたい漫画です。

 


③健一郎の口元
2:28の健一郎の笑い顔は宮崎駿作品のルパンやコナン、トトロなどの笑い顔からとっています。この無邪気な笑い方が私自身好きで、健一郎はこんな笑い方をしていたんじゃないかと思いながら、作っていました。
関連はないですが、「君たちはどう生きるか」もシュールレアリスム的な要素が強く、芸術家には大うけだったそうです。
(NHKで正月中に村上隆さんの特番がありましたが、絶賛でした
あれもジョルジュ・デ・キリコやベックマンの死の島などもオマージュされているようです。

 

④ラストの肖像写真、肖像画一覧

以下、登場させてます。

 

哲学者(3:06)

ソクラテスプラトンアリストテレスピタゴラスヘラクレイトスボエティウスデカルトパスカルスピノザ、カント、ヘーゲル、キュルケゴール、マルクスフッサールニーチェフロイト、ハイデッカー、メルロポンティ、サルトルラッセ

 

楽家(3:12)

バッハ、ハイドンモーツァルトベートーヴェンロッシーニパガニーニメンデルスゾーンショパンシューマン、リスト、ワーグナー、サン・サーンス、ムソルグスキーチャイコフスキードビュッシーリヒャルト・シュトラウス、サティ、ラヴェルシェーンベルク

 

詩人(3:18)

ホメロスヴェルギリウス、ダンテ、ゲーテ、シラー、ヘルダーリンノヴァーリス、ポー、ディキンソン、ボードレールマラルメヴェルレーヌランボーホイットマンゲオルゲヴァレリー

 

画家(3:22)

ダヴィンチ、ミケランジェロラファエロゴヤ、ベラスケス、カラヴァッジョ、ティッツィアーノ、ルーベンスフラゴナール、アングル、ドラクロワクールベ、ミレー、マネ、ドガ、モネ、ルノワールベルト・モリゾ、モロー、ルドン、スーラ、セザンヌゴーギャンゴッホムンク、シーレ、マティスピカソ、ルソー、シャガールカンディンスキー、クレー

 

 

◆MADにおける象徴主義写実主義

本作についての解説は以上となりますが、最後にMADMAXの感想や現在のMADを少し絵画論で見ていくことで何かしらのヒントとなるかもしれないということで書き残しておきます。


現在のMADを見ていると19世紀の象徴主義写実主義の争いや
新古典主義ロマン主義の対立に似通っているように思います。

この象徴主義写実主義の争いというのが「目に見えない対象を描く」か「目に見える対象を正確に描く」かの派閥争いとなります。

画家のイメージで言えば、こんな感じです↓

 

象徴主義
リーダ モロー
メンバー ルドン、ムンククリムトゴーギャン

 

写実主義
リーダ クールベ
メンバー マネ、モネ、ルノワール

 

象徴主義はいわゆる「概念」を描きます。「死」だったり「神秘」だったり、「愛」、「運命」みたいなテーマです。象徴主義は目に見えないものを描くという性質上、表現主義やフォービスムにも影響を与えています。
モローの教え子だったマティスもルオーもフォビスムとして大成しましたし、
同様にシュトゥックの教え子のカンディンスキーとクレーは抽象表現主義として活躍しました。

 

一方の写実主義は、林檎とか風景とか、人など、目に見えるものを描く試みです。
印象派写実主義と言うのはどうなの?というのはありますが、思想の根底は目に見えるものの表現ということで共通しています。

 

現在のMADに当てはめてみると、象徴主義は元作品からテーマを読み取りそこからテーマや登場人物の感情などを作家として表現するMADと言えると思います。
一方で写実主義は元作品の内容を正確に再現するMADと置き換えることが出来ます。
この分類で今回のMADMAXを分けてみると以下の分類になります。(動画MAD除く、かつ独断と偏見による分類)

 

象徴主義
【MAD】 Sleep tight, sweetheart 【まちカドまぞく】
【MAD】 ЇИḟƩɌηϴ_ 【魔女の家】
【MAD】 dirty girls 【化物語
【MAD】 迷星叫 【BanG MAD】 西宮硝子 / ヰド 【聲の形
【MAD】最後のさよならを告げるよ。【デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション
【MAD】 成層圏と追憶 【アオのハコ】
【MAD】 虫出しの雷とほんとうのさいわい 【花は咲く、修羅の如く】
【MAD】 世界限界の向日葵と永劫回帰の櫻 【サクラノ刻】

 

写実主義
【MAD】 one of a kind 【蒼の彼方のフォーリズム
【MAD】 辿ろう、2人の記憶を 【Summer Pockets
【MAD】 星が生まれる瞬間に 【FateGrand Order 】
【MAD】 FREEDOM 【チェンソーマン】
【MAD】 残光 【創作彼女の恋愛公式】
【MAD】群青の火輪【しらないこと研究会】
【MAD】 約束と初めての×× 【きみが死ぬまで恋をしたい】
【MAD】 legend 【SHIORI EXPERIENCE~ジミなわたしとヘンなおじさん~】
【MAD】 幸福な終わりの物語 【サクラノ刻】


MADにおける象徴主義はMVやPV、映像作家からヒントを得ているパターンが多いのかなと思います。
特徴としては「綺麗な絵<面白い絵」「元ソースの再現<作家の解釈」
自分なりに考えて寓意を込めたオブジェクトを使い、キャラクターの心情を表現することに重きを置く傾向があります。難解さは罪ではなく、それが深みや個性に繋がるという思想でそこに作家の個性が求められます。

 

MADにおける写実主義は漫画MAD、漫画PVやアニメOP、ゲームOPからヒントを得ているパターンが多いのかなと思います。
特徴としては「綺麗な絵>面白い絵」「元ソースの再現>作家の解釈」
アニメ同様に滑らかなアニメーションはどうすれば出来るのか、水飛沫や波、風、日の光、炎などのエフェクトはどうか、光はどのようにキャラクターに当たっているか、
デザインは綺麗に整っているか、など現実の物語をいかに綺麗に再現出来るかを重視します。分かりやすく物語を伝え、万人に分かる表現を重視する思想です。
この思想の場合は作家独自の解釈を加えた通常の技法を逸脱した表現は、なかなか理解されにくかったりします。

 

恐らく、多くのMAD作者は自分の主義と違うものに当たった場合に、
「凄い!でも、自分の作りたいものとはちょっと違う」という感覚を感じ取っているはずです。自分がどんな思想でMADを作っているかを整理して、スタンスを決めてMADを作ることでより自分の作りたいものが明確化され、良い表現になると私は信じています。

 

また、この二つの主義に優劣は基本的にはないと考えています。
モネとゴーギャンのどっちが偉大か、とかクールベとモローはどっちが人気があるかは意味のない議論です。見た人が決めることです。
面白いのは、同じ主義同士がMADMAXで当たると技法対決になって何となく勝敗が見えやすい一方で、主義が違うMADが当たると票が割れて非常に面白い戦いになったりします。それは見た人が象徴主義に惹かれるか、写実主義に惹かれるかが全く見えないからです。

100年以上前の絵画の考え方の違いが今もMADの世界で当てはめられることには驚きます。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がありますが、過去の歴史を思想の下地にして、映像に取り入れることでより面白く、評価され、心を打つ映像が作れると思います。

 

ゴーギャンは「芸術は、盗作であるか革命であるか、そのいずれかだ」と言ったそうです。我々も出来れば革命側として生きていきたいものです。

【MAD】Michaelの話

「語り手と、新世界」の方は、タイトルに反して語るところがない、いつもの文法で作成したMADなので、今回は実験作でアップしたMichaelの解説を書く。

 

www.youtube.com

 

今回、このMADはあまり理解されるつもりがなかったMADであり、「語り手と、新世界」が極めて万人向けに分かりやすいエンタテイメントに振り切っている一方でこちらはアトリビュート、引用を混ぜ元作品とは乖離した雰囲気を作り出そうしたものだ。

 

MADなんて目が面白ければいい、と言ってしまえばそれまでなのだが、それはいわば絵画が不要でイラストであればよい、楽しい、分かりやすい刺激のみでよいと言っていることに他ならない。そのため、至極シンプルなMADには味わいが薄く、そこに何らかの思想や作者のバックボーン、その作品から得られる主題などを織り交ぜて映像化することで新鮮な気付きを視聴者に与えると思っている。

 

今回のMADのタイトルは「Michael」という極めてキリスト教の世界観が強いMADとした。このMADで出てくる登場人物は何かしらの現実世界の宗教にあるものの比喩表現、隠喩となっている。

 

いわゆる西洋絵画が、マネ以前に圧倒的に宗教画を評価されていたことと同様にMADで宗教観を入れることでどのような表現となるか試したかったというのがこの作品の肝である。

 

そもそもではあるが、ブルーアーカイブのモチーフがあらゆる神話からベースをとっている。シッテム、ヒエロニムス、バルバラなどの名付けも始め、キャラクターのモチーフも天使や悪魔を連想させる作りになっている。ブルーアーカイブは単純にシナリオの妙だけではなく、このような引用やキャラクターの裏にあるモチーフが背負うバックボーンにも面白さがある。

 

今回のMADのモチーフとなった生徒としては諸説あるが以下のモチーフと解釈しMADを作成している。

 

ミカ = ミカエル

ナギサ = ラファエル

セイア = ガブリエル  

ハナコ = ウリエル  

サオリ = サリエル

 

いわゆるアトリビュートを用いてモチーフとキャラクターの関連付けをしたものである。

 

ミカ…剣、秤

ナギサ…杖

セイア…白百合

ハナコ…本

サオリ…月

 

ミカに焦点を当てているためミカのアトリビュートは最も多い。

下記の引用を用いて映像を作っている。

 

悪魔を倒す聖ミカエル:ラファエロ・サンティ

Quis ut deus:「誰が神に比べられようか」 ヘブライ語でミカエルの意

ミカエル像:ローマ サンタンジェロ城

ジャンヌ・ダルクのステンドグラス

ダニエル書 12章

 

今回の寓意としてミカをミカエル、あるいはジャンヌ・ダルクと同義に扱ったMADとなる。当初は自分を魔女と考えていたミカが最終的に天使として利他の精神で人を救うという構造とした。

ミカエルはヨハネの黙示録にて竜(サタン)、悪魔と戦い勝利を収めた。ミカがゲヘナを憎むのは天使としての性質が強いからに他ならない。そして、黙示録やダニエル書で救いに現れるミカエルは剣を携え悪魔と戦うのだ。

ミカのエデン条約の戦いもゲマトリアが作り出した模倣、バルバラといったトリニティを神と置いた場合の悪魔と戦う。

その戦いでミカは自己のためではなく、他人の救済のために戦い、祈りながら銃を放つ。

これはミカエルの啓示を受けて戦ったジャンヌ・ダルクをも連想させる。

 

しかし、ミカ自身が自分の持つ天使という性質を否定するか如く、「『憐れみたまえ』と言ってどうなる?目に見えないものに縋ってどうなる?この歌は好きじゃない」というところがミカという人間性を面白くしている鍵でもある。つまりミカは極めて神話の天使ミカエル同様の行動をとっている(エデン条約の阻止:「ミルトンの「失楽園」ではミカエルはアダムとイヴを追放する役割を持つ バルバラ、模倣との戦い:ヨハネの黙示録でミカエルは無数の悪魔と戦い勝利を収める)にも関わらず、自分の意志としては神を否定する。

ここから、人の意志の前に人の性質が表に立つという構図が見える。

そのため、ミカのKyrie Eleisonを否定するセリフを入れている。

 

ミカは結局のところ、成り行きであらゆる罪を背負ってしまっただけで本質は利他の精神があるように思える。

 

 

以上が全体として描きたかったもので一人の登場人物を神話としてなぞる実験的なMADになった。細かい部分で言えば、キリスト教典礼色を混ぜながら背景を作成したりとしているが、大体書きたいことは書ききってしまった。

 

宗教特有の神聖さや不思議さ、神秘性はBGMやステンドグラス、大量のアトリビュートに任せているので色々と小難しいMADになってしまった。

これが面白いMADとはまるで思わないが、こうして書いておくことでMAD作者が何を考えながら作っているかなど参考になるかと思ったので書き残した。

 

(結局、映像から伝わらなければ意味がないのだが…