【はじめに】
黄金祭2026に今年も参加したので、その編集後記を書く。
編集後記は自己満足に考えたことを出力しているに過ぎない。
■素晴らしき日々について
MADについて書く前に、前提知識として「素晴らしき日々」の解説を簡単にしておく。
物語の登場人物としては、水上由岐、間宮卓司、高島ざくろ、橘希実香の4名を覚えておくことで概要は把握できる。
水上由岐:本好きの主人公格の少女。高島ざくろとたまに屋上で交流する仲。「シラノ・ド・ベルジュラック」という戯曲をざくろに貸す。
間宮卓司:悪い意味での主人公格。素晴らしき日々ではラスボスに当たる。高島ざくろの死を目撃したことを契機に精神が崩壊しカルトの教祖になっていく。
高島ざくろ:大人しい黒髪の少女。凄惨ないじめを受け、別の学校の少女を巻き込み飛び降り自殺を遂げる。
橘希実香:ざくろ同様クラスに馴染めず。覚醒した間宮卓司を崇拝し、カルト宗教の右腕となっていく。
登場人物の紹介でぼんやりと大枠が見えてきたかもしれないが、以下あらすじである。
あらすじ:
同級生の高島ざくろの自殺を目撃した間宮卓司は、狂気に陥っていく。続けて、別の生徒も同様の飛び降り自殺をしたことから、7月20日に終の空を迎え、世界が崩壊するという信仰に取りつかれ、学校の生徒を扇動し集団自殺をさせようと画策する。
卓司の中には確固たる理論があるが、水上由岐は卓司の異常な行動を止めるべく動き始めた。
卓司に加担し生徒を扇動する希実香、由岐とともに卓司に違和感を持ち、止めようとする若槻姉妹、全てを悟ったような不思議な生徒、音無彩名。
それぞれのキャラクターが思惑を持ちながら、世界が終わる日、7月20日は刻一刻と近づいていく。
このMADの視点はその中の登場人物、高島ざくろと水上由岐に焦点を当てている。
ここで前提として覚えて頂きたいのが、水上由岐に対して高島ざくろは淡い恋心を抱いている。
会話をしている中でこのMADのテーマともなる「シラノ・ド・ベルジュラック」という戯曲をざくろは由岐から借りて、物語のシラノのセリフを叫びながら死んでいく。
「月世界旅行記」は物語上は報われない高島ざくろを中心とした完全創作の戯曲である。MAD内に出てくるテキストは冒頭とラストを除き、全て自分で作成し物語の展開も作っている。
素晴らしき日々の序章“Down the Rabbit-Hole”でざくろは由岐の前に登場するが、そのざくろがどのような旅をしてきたかを想像しながら、作成した。
■戯曲

元々、戯曲をMAD化したいという構想はエドモン・ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」を読んだ時からあったが、形になったのは2026年の初めころからになる。
「シラノ・ド・ベルジュラック」についても簡単に解説をすると、
舞台はフランス、剣術家であり作家であり、理学者そして哲学者でもある万能の才人シラノ・ド・ベルジュラックを主人公としたお話である。
ちなみに架空ではなく、実在の人物である。
あらすじ:
才人シラノは鼻が大きいことをコンプレックスにしており、物語上は醜いという描写がされている。
そんなシラノはロクサーヌに恋心を抱きつつ、外見を気にするあまり恋心を打ち明けられないでいた。
ある日、ロクサーヌはシラノと同じ青年隊に所属するクリスチャンに一目ぼれしてしまう。
一方で当時は恋文、手紙で恋人同士は愛を確かめ合うのだが、クリスチャンは全くもって文才がなかった。
そして、ひょんなことからクリスチャンとシラノは出会い、クリスチャンの恋文の代筆をシラノがすることになったのだった。
戯曲と言えば、シェイクスピアが最も有名だと思うが、フランスも戯曲においては歴史がある。ちょうどシラノの生きる時代にモリエール、コルネイユ、ラシーヌの三大戯曲作家がいた。
「シラノ・ド・ベルジュラック」の最後の章を読めば、モリエールについてシラノが言及しているセリフが読めるだろう。
モリエールは「ドン・ジュアン」などの喜劇で有名な作家で、自身で書いた戯曲について自分で役を演じるまでして最後は舞台上で死んだと言う。
17世紀のものにも関わらず、「人間嫌い」「守銭奴」など、今でも楽しめるというのは恐ろしい普遍性ではないか。
そんなモリエールだが、シラノの作品を剽窃して、「スカパンの悪だくみ」を制作したという指摘がある。
しかし、当時は盗作や剽窃は至って普通のことであり特段咎めるものでもなかったようだ。
とすれば、自分のMADも17世紀の価値観で言えば、過去ほんの100年か200年前の物語をベースにして作るくらいでは
パクリなどと言われないのではないかという淡い期待のもとでこの作品を作っている。
今回、戯曲のテーマとして手本としたいと考えたのが、ゲーテの「ファウスト」となる。
「ファウスト」は上演不可能な戯曲と言われているが、それは第二部における多くのギリシャの神々や妖魔、ホムンクルスなど、古今東西のあらゆる伝承を総動員した壮大な叙事詩となっているためである。
ここで「ファウスト」がなぜ、ここまで後世に残っているのかを考えたときに一つに
世界を構成するあらゆる要素を体系的にまとめ、詩として残した作品が稀有だったことが挙げられるのではないか。
とすると、この形を拝借することでMADにおいての一つの普遍的な類型が作れるのではないかという結論に至った。
では、今回の作品はどの要素を総動員したか。文学である。
このMADの特性としてあらゆるオブジェクト、シーン、テキストが文学をベースとした作りで構成されている。
要はこの作品は「天空の少女」とするファウストが「シラノ・ド・ベルジュラック」というメフィストフェレスに連れられ、世界を旅していく物語となっている。
■叙事詩的、黙示録的

一点だけファウストと異なる部分がある。それはこの作品が叙事詩的ではなく、黙示録的であるということだ。
トーマス・マンの評論に「ゲーテとトルストイ」について書いたものがあるが、
これはゲーテとトルストイを「自然」とし、シラーとドストエフスキーを「精神」に区分する。
評論ではゲーテ、トルストイは生まれ持っての貴族的な自然な美があるとし、
この雄大な自然の美が生み出す壮大な叙事詩が彼らの持ち味とする。
逆にシラーとドストエフスキーにあるのは精神であり、この特性より生まれた作品を黙示録と表現する。
マンは抽象的な概念で説明しているが、これでは分かりにくいので私なりの理解で書くと以下である。
自然(叙事詩的):「スター・ウォーズ」「ガンダム」「ワンピース」
精神(黙示録的):「スタンド・バイ・ミー」「エヴァンゲリオン」「寄生獣」
叙事詩は壮大である。あらゆる人間の歴史から普遍を構成する物語である。
黙示録は深淵である。ある特定の人間から普遍の性質を探る物語である。
ここで注意いただきたいのはマンは決して、叙事詩を大衆的、黙示録をニッチと分別していないことだ。
文学で言えば、叙事詩が「アンナ・カレーニナ」、黙示録が「罪と罰」のような区分になると思うが、どちらもエンターテイメントとしての大衆性という括りにハマらない。あくまで、作者や物語の普遍的な特質を指す。
マンは叙事詩的な作品に憧れ、シラーやドストエフスキーではなく、ゲーテやトルストイを目指したいと考えていたと言う。
だが、作品を読んでいるとそれは本当なのかと疑いたくなるものもいくつかある。
もちろん哲学版ファウストと言うべき「魔の山」や「ブッデンブローク家の人々」「ヨセフとその兄弟」は叙事詩とも言えるが、一方で後述する「ヴェニスに死す」「トニオ・クレーゲル」などの短編はあからさまに黙示録的ではないか。
ということで、自分はドストエフスキーやマンのこれらの短編の方が性に合っているので、作品は黙示録的に作った。
【本編解説】
0 冒頭
■手記

このMADの始まりは戯曲部分とは違い、少し現実に寄せた作りとしている。
戯曲部分は冒頭にある手記に記載のものであり、手記に触れるまでは現実の世界である。
手記というキーワードで関連付けたのは小デュマの「椿姫」である。
「椿姫」は娼婦マルグリット・ゴーティエの遺品整理の場面から始まる。
語り手は遺品の中よりアベ・プレヴォーの「マノン・レスコー」という小説にアルマンという名の男のサインがあることに気付く。
そして、アルマンと出会った語り手はマルグリット・ゴーティエとアルマンの物語を聞く。
その際に語り手はマルグリットの手記をアルマンより手渡される。
ここまでの展開をベースにして冒頭の部分は作成している。
■とあるMADのオマージュ

冒頭に一部、既視感を覚えた方もいるかもしれない。
その正体は2010年に朝奈氏が公開した「CantusFirMus」である。
天野月の「ゼロの調律」が使われているが、冒頭はヘンデルの「私を泣かせてください」がそのまま使われている。
今回のMADの冒頭はヘンデルに傾倒した作曲家、アルバート・ハリスの「ヘンデルの主題による変奏とフーガ」のメインテーマ。
朝奈氏のMADは「シラノ・ド・ベルジュラック」の本編のセリフを「素晴らしき日々」で改変したセリフを使っていたが、
このMADは原典のセリフをそのまま引用している。
つまり、2010年に自分が憧れた朝奈氏のMADに対して、
「CantusFirMus」
楽曲:原典 セリフ:原典より影響を受けたもの
「月世界旅行記」
楽曲:原典より影響をうけたもの セリフ:原典
の関係性となっている。冒頭パートの終わりもざくろの一枚カットで揃えている。
Ⅰ シラノ・ド・ベルジュラック について
■月世界旅行記

第一幕は17世紀にシラノ・ド・ベルジュラックが執筆した「月世界旅行記」をベースにしている。
元々の物語は素晴らしき日々の本編で語られる通り、詩人であり哲学者でもあり剣技も達人であったいわゆる万能の人、シラノ本人が主人公で月世界での体験を記したものである。
月世界に行く際、シラノは特殊な機械を作り上げ、体に牛の骨髄を塗って辿り着いた。(牛の骨髄が月に引き寄せられるという考え方が当時あった)
聖ヨハネ祭の前夜に奇跡的に月へ到着したのである。(新暦7/6、旧暦6/24付近)
この月世界旅行記を読めば分かるが、月の造形は無機質なクレーターだらけの水のない空間ではなくエデンの園のように動物も月に住む人間もいる不可思議な世界となっている。作品内では月の人間は四足歩行で歩くとされている。
そして、彼らは言葉ではなく音で会話をし、香りを食べて生きるため長寿であり、その香りの対価にソネットが必要なのである。
シラノは月世界の住人の様々な文化を目の当たりにする。例えば、月世界にある本は「音で読む本」である。
ページに文字はなく、音で本の内容を表現する。これは驚異の未来予知ではないだろうか。17世紀の人間が既にAudibleの登場を予感しているのだ。また、月世界では若人を年寄りが敬うという逆転現象が起きている。理由はある程度の年齢に達すると能力も衰え、若人と逆転していくと考えられているからだ。
その他にも戦争は必ず両者の力が均衡していないと不公平で認められないという考え方、キャベツは生命と言えるのか等の様々な哲学的な議論が展開される。
これは恐らくシラノ自身の合理的な意見も含まれている。基本的な月世界の考え方はシラノが持つ考えのアウトプットだ。
シラノは理学者でもあり、無神論者にも近い考え方を持っている。
当時は既にガリレオによる地動説も確立し、旧態依然とした天動説ではなく地動説が月世界旅行記でも語られている。
また、更に直接的な表現として後述するエデンの園を案内した預言者エリヤに暴言を吐き、追い出されてしまう。
■飛行機乗りの話

月世界旅行記では、様々な伝説上の人物が登場する。一人は預言者エリヤ、二人目はエノクである。
エノクは旧約聖書の創世記に記載があり、人類最初の殺人者であるカインの子である。
このエノクは記述上は死について言及されておらず、「神に連れられて行った」とされている。
そのため、今回の第一幕においてもエノク同様の人物をカスタマイズさせて登場させたいと考えた。
ここで登場するのが、ざくろが水平線の果てに見る飛行機乗りである。
この飛行機乗りは1944年に第二次世界大戦の偵察飛行中に失踪した。彼は飛行機乗りであると同時に文学者でもあった。
このフランス人は、アエロポステル(現エールフランスに承継)という航空郵便の会社に勤めており、その時の経験を経て「夜間飛行」「南方郵便機」「人間の土地」を書いている。
一番有名な作品は上記の作品を統合し、寓話化した「星の王子様」だろう。
彼はある時はサハラ砂漠に墜落し、飲まず食わずで放浪し救出された。多くの飛行機仲間を失ったこともある。彼の飛行機仲間のギヨメはアンデス山脈で不時着し、凍傷になりながらも二日間山の中を歩き救出されたという逸話もある。
そんな中で描かれた彼の作品は必ず生と死が限りなく接近する。その上で深い孤独や静謐さを感じるのである。
そもそもの郵便機という概念が分かりにくいと思われるので、少し解説を挟む。
現在はエアメールなど旅客機とも提携して輸送することが出来るが、20世紀初頭は郵便専用の郵便機が活躍した。手紙等の郵便物を送り届けるため、二人乗りの飛行機を利用していた。通常は操縦士と無線等のアシスト用の通信士が同乗する。
しかし、当時の郵便機での運搬は常に墜落の可能性があり、紛争区域の上空を飛ぶ際は撃ち落されることもあった。
例えば、「夜間飛行」はどんな作品かというと出来るだけ多くの郵便機を飛ばすために夜間も運行していた当時のエアロポステルの支配人の話である。
当時の技術で夜間の完全な暗闇の中で郵便機を飛ばすというのは命がけで、墜落の危険や嵐に当たる可能性も多大にあった。
そんな孤独な暗闇の中で、かつての郵便機の操縦士は手紙を送り届けていた。
「南方郵便機」に以下の記載がある。
”地上の君の最後の足跡は、ここにしるされたのであったか?ともすれば、ここが物質界の果てかもしれないのだ。地はここに果て、ここから月かげの世界が始まる。現実が現実でない月影の世界が。”
彼の友人であったジャック・ベルニスは小屯所から飛び立ち、二度と目的地に着陸することはなかった。
2000年にサン・テグジュペリの飛行機の残骸が海から発見されたと言うが、これが物質界の果てに残された最後の物であり、彼は遠い月の世界へ向かっていったのかもしれない。彼の妻コンスエロは「彼はどこかの星で星の王子さまのところに行ったのだ」と言う。
これも素晴らしき日々で示されていた「世界の限界」の一つではないか。
■ソクラテスの悪魔

この怪人物は「月世界旅行記」に登場するシラノを助ける精霊のような存在である。
シラノが多大に影響を受けた哲学者のガッサンディ、加えて「ファウスト」の主人公であるファウスト博士、もちろんソクラテスまで様々な人類史上の知識人に対して知恵を授けてきた太陽生まれの超越者だ。
シラノは完全なオリジナルでこの精霊を作ったのではなく、元ネタはソクラテスの逸話の中にある「頭の中でデーモンが囁く」という話がモチーフとなっている。
「ソクラテスの悪魔」は訳者によって様々な訳があるが、「月世界への航海」では悪魔、「日月世界旅行記」では魔神とされている。
今回は魔神という語感が、MADで登場させる音無彩名の不気味さ、悪意のようなものが排除されてしまうため、より性質が近い「悪魔」とした。
■太陽世界

太陽世界旅行は月世界旅行と対になるシラノの作品で、「太陽諸国諸帝国」というタイトルで出版された。
今度は月ではなく、シラノが太陽を旅するという物語でシラノの想像力には圧倒される。
作品自体は不自然にページが途切れ終わっていることから未完とされているが、
月世界にはない多くの面白いモチーフが存在する。
例えば、太陽には鳥の国がある。
鳥の国ではシラノは鳥に捕まり、鳥たちは人間を憎んでいるという背景があり、シラノは鳥による裁判を受けることになる。
その時、鳥の中で味方をしてくれたのがオウムのセザールとカササギだった。
第三幕で登場するオウムとカササギは鳥の国でシラノを助けた二種類の鳥を表している。
この鳥たちが今度はざくろの旅を助けることになるのである。
また、ルネサンスの頃のイタリアの哲学者トンマーゾ・カンパネッラが太陽世界では案内人となり、サラマンドラとレモラの戦い、寓意の河などこちらも月世界に劣らず哲学的な内容を含む。
ちなみにシラノの「太陽諸国諸帝国」を書いた時期に丁度、デカルトが亡くなったこともあり、この太陽世界の最後は亡くなったデカルトに出会うところで閉じられている。
■手紙

素晴らしき日々の水上由岐と高島ざくろの関係は、「シラノ・ド・ベルジュラック」においてのシラノとロクサーヌに近い関係でもある。
ネタバレ回避の観点で言えば、「ざくろが見ている由岐は実は由岐ではないが、由岐である」という禅問答のような回答となる。
すかぢ氏が素晴らしき日々でやっていることは、手紙の持つ世界の共有という性質を人間に置き換えて物語を作り替えたのだと理解している。
ロクサーヌがクリスチャンに恋をしたのはシラノの手紙に恋をしたからだ。つまりシラノの手紙が世界を共有し、その世界に恋をしたと考えられる。
手紙はあくまで世界共有の手段であり、普通の言語も形を変えた手紙とも捉えることが出来る。
ざくろは由岐が第二幕で書いた手紙を受け取り、由岐に会いに行くことを決意するのである。
Ⅱ 水上の猫街、コオロギの郵便屋 について
■猫とともに去りぬ

第二幕で本編に全く出てこないヴェニスの風景が出てきて、驚いた方も多かったと思う。
この第二幕の舞台および登場人物は、素晴らしき日々で水上由岐が読んでいる「猫とともに去りぬ」からの引用となる。
「猫とともに去りぬ」はジャン二・ロダーリの童話集であり、イタリアを舞台にしたオリジナルの童話が収録される。
タイトルも「風とともに去りぬ」のオマージュだが、ロダーリの遊び心を感じる。
今回の第二幕で採用したのは以下のお話。
「猫とともに去りぬ」 猫(アントニオ)
「チヴィタヴェッキアの郵便配達人」 コオロギ
「ヴェネツィアを救え あるいは 魚になるのがいちばんだ」 ヴェネツィア
その上で各童話の設定を利用しながら、素晴らしき日々にて発生する一連の事件とリンクするような形で創作している。
原作を読んだうえでこの第二幕を見て頂けると展開なども既視感があり楽しめる。
また、「猫とともに去りぬ」以外の要素で芥川龍之介の「竜」、宇治拾遺物語の「卒塔婆の血」より一部借用がある。
水没というシナリオは後述の「ヴェニスに死す」の"コレラ"を水没にアレンジしたものだが、
その水没に至る原因として「卒塔婆の血」を利用している。
この話は、卒塔婆に血が付くと津波が来るという話をする老婆を揶揄うためにある若者がわざと血を付けたところ
本当に村に津波が来たという話で、いわゆる「嘘から出た誠」の典型例である。
芥川はこの逸話を利用し「竜」を書いたが、この時の群衆の構造は素晴らしき日々で、
間宮卓司の信仰を信じるクラスメイトを表しているようである。
■ヴェニスに死す

トーマス・マン原作、ヴィスコンティ監督の「ヴェニスに死す」がヒットしてから半世紀経つ。
この二幕は登場人物は「猫と共に去りぬ」に依存している一方で、筋書きはトーマス・マンを下敷きとする。
ここでトーマス・マンを意識した題材にしたのは、一つに敬愛する宮崎駿監督の「風立ちぬ」がトーマス・マンの「魔の山」に
大きな影響を受けており、では、こちらは「ヴェニスに死す」を下敷きにしたものを作ろうと考えたためだ。
「ヴェニスに死す」はグスタフ・フォン・アッシェンバッハという世界的な文学作家がヴェニスのリド島に休養時に
ポーランド人のタッジオという少年を見かけて魅了され、滞在を延ばしている間に街がコレラに汚染されアッシェンバッハも罹患して死ぬという話である。
この話で特徴的なことはアッシェンバッハとタッジオは一度も会話をしないことである。あくまでお互いには認識しつつも最後まで交わらない。
ここにトーマス・マンの芸術家と自然による美への態度が象徴されている。
マンの極めてよく似た作品に「トニオ・クレーゲル」という作品がある。
これらの作品には、芸術家と自然による美(非芸術家)は交わるべきではないという主張が内包されている。
理由として自然による美(非芸術家)が芸術家に交わることで、美が消滅することを予見しているためだ。
この考え方と同様の思想としてオスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」があると考えている。
ドリアンが破滅に至ったのは、メフィストフェレスであったヘンリー卿も要因ではあるが、元を辿るとバジルの絵が原因であり、自然による美(非芸術家)が芸術と交わったことにより損なわれたのが理由である。
二幕に出てくるアントニオという名の猫は、かつてのアッシェンバッハでありトニオ・クレーゲルでもある。
彼は水上由岐と高島ざくろの関係性に自己を重ねて見ている。
素晴らしき日々の本編がそうであったかは議論の余地があるが、由岐を芸術家と捉えるのであれば、ざくろは自然による美(非芸術家)であり、由岐を魅了した。
アントニオはこの関係性に対し、警鐘を鳴らしたうえで別手段として、
芸術家における世界の共有という意味で「手紙」を提案するのである。
■薔薇色の扉

由岐は、ざくろを追いかけて一つの薔薇色の扉を見出す。
この薔薇色の扉は多くのモチーフを象徴しているが、大きくは「狭き門」「掟の門」である。
マタイによる福音書 7:13
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
この記載を引用し、プロテスタントであったアンドレ・ジッドは「狭き門」を書き上げたが、これは単純な宗教的な記載としての意味以上のものがあるのではないかと思う。
人は一人ずつが狭き門を通り、狭き道を歩き、生を全うする。そこには他者が入る二人分の道幅は残されていないのではないか。
狭き門は水上由岐にとっては救いの道である一方で、既にざくろが向かうその道を通ることが出来ないのである。
夜間に飛ぶ郵便機がそれぞれ、完全な孤独であるように人は最後まで一機の郵便機のコックピットより、他のコックピットを見て無線機で互いに交信をしている。とすれば、これが因果交流電灯の明滅ではないか。
そして、この門は性質の悪いことに水上由岐のためだけに開かれている門である。
この門を通っていい者は水上由岐のみなのだが、この門を通ろうとすると不可思議なことに毛皮の外套を着た門番は彼女が通ることを止めようとするのである。
門を通ることが出来ない彼女は、最後に二人の男に自身の罪がなんであったかも何も知らされず処刑される。
それはアッシェンバッハがコレラで死んだように、ヴェネツィアと共に街ごと消えていく最大の不条理を示したものである。
郵便機が見た”疾病の街”はアルジェリアのオランをイメージしたが、この沈みゆくヴェネツィアも不条理という観点では疾病の街と言えるかもしれない。
門の造形イメージとしてはテォフィール・ゴーティエの下記の詩を元とした。
「七宝とカメオ」
Variations sur le Carnaval de Venise より
小舟は岸につき、錨索を
杭に投げかけ、わたしを降ろす
薔薇色の玄関の前、
階段の大理石の上に。
ドリアン・グレイはこの詩集を読み、
”リド島に向かってゴンドラを漕ぎだすとき、そのあとに残るあのトルコ玉のような青さの直線のように見えて来るのだった”と感銘を受ける。
作者のワイルドがゴーティエに影響を受けていることは分かりやすいが、マンの「ヴェニスに死す」の舞台となったリド島に関しての言及があることが面白い。
Ⅲ 船出の日、ウサギ穴からの帰還 について
■冒頭

この幕は、高島ざくろが水上由岐の手紙を受け取り、地球へ還るまでの道程を表す。
ただ、第三幕の意図として、ここで描いている高島ざくろは素晴らしき日々の登場人物というだけでなく、
過去にあったあらゆる人物を象徴する存在として描きたいという意図があった。
つまり、彼女は「椿姫」のマルグリット・ゴーティエであり、「貧しき人々」のマカール・ジェーヴシキン、あるいは「狭き門」のアリサでもある。
この物語の登場人物は皆、手紙をお互いの世界の共有のために使っていたが、全員が報われずに悲劇として幕を下ろす。
しかし、ここで描く高島ざくろは受け取った手紙の送り主に会いに行くために自ら行動を起こし、運命に立ち向かう。
また、別の見方をすれば、彼女は異世界より元いた世界へ還りたいと考える少女かもしれない。
その見方をすれば、彼女はルイス・キャロルのアリスであり、ライマン・フランク・ボームの「オズの魔法使い」ドロシーにも見える。
この象徴的に普遍化されたざくろ像は、想い人のために強い意志を持って帰還しようとする人間を表している。
■船出

「時は満ちた」とシラノが言う通り、7/7の聖ヨハネ祭が近づいているのである。
聖ヨハネ前夜にシラノは月へ到達した通り、月から地球へ帰還する際も聖ヨハネ前夜の空気力学(重力)が変位する日を目掛けて、ウサギ穴へ旅立つという設定としている。
旅立ちが船なのは、バイロンの「チャイルド・ハロルドの巡礼」の船出の章より想像した。
さらば、さらば!わが故郷の岸よ、青い波間に消えゆく。
夜風はため息をつき、波濤は轟き、海鳥は物悲しく叫ぶ。
海に沈むあの太陽の後を我々は追いかけてゆくのだ。
しばしの別れだ、太陽よ、故郷よ、わが祖国よ、おやすみなさい!
ざくろの船出はこの逆で、故郷である地球に帰るために海から昇る太陽を追いかけて進むのである。
■小さなロクサーヌ

「シラノ・ド・ベルジュラック」の名場面として、ロクサーヌが戦場までクリスチャンに会いに来るシーンが挙げられる。
シラノとクリスチャンは青年隊に所属していたが、アラスの包囲攻撃に派遣されてしまうのである。
砲弾渦巻く戦地の中、空腹で体力を消耗する青年隊に対して、ロクサーヌは馬車を飛ばし馴染の料理人を引き連れて颯爽と登場する。
敵兵のスペイン人に行き先を問われても「恋人に会いに行く」と言い、切り抜けていく。
陣地に到着したロクサーヌは、隊員に食糧やワインを振る舞い勇気づける。
この行動が結果的にクリスチャンの死を目撃してしまうという別の悲劇を生むのだが、
ロクサーヌを何よりも魅力的なキャラクターとしているのが、恋人のために戦地まで来てしまうというその行動力だ。
それまでのフランス小説で言えば、スタンダール「赤と黒」のレナール夫人を始め、先のマルグリット・ゴーティエ、「マノン・レスコー」のマノンと奔放な側面はあるものの恋人のために自ら乗り込んでくるという精神性を持った人物がいただろうか。
シラノが「小さなロクサーヌ」とざくろを呼ぶのは、ざくろも同じような大志を抱き、
想い人に自ら会いに行こうと行動するからである。
■帰還

「現世巡礼交響曲」の時から、異世界からの帰還を描きたいと考えていた。
前作は死から銀河鉄道による帰還としたが、今回は別の方法を考えたかった。
また、原典となる「月世界旅行記」はシラノの月世界から地球への帰還をかなりあっさりと終わらせていて、
一から別のベースで考える必要があった。(原典は「ソクラテスの悪魔に抱えられて地球まで飛び去った」というレベルの記載である)
帰還のモチーフとしては「オズの魔法使い」と「不思議の国のアリス/鏡の国のアリス」を参考としている。
理由としては、少女が異世界を旅する物語の原点であり、全て元の世界に帰還しているためである。
そのままの展開にはあまりしたくなかったため、それぞれ物語の結末をベースにするのではなく、始まりをベースにした。
(また、不思議なことにどの物語も始まりは壮大だが、終わりは簡素だったこともある)
分かりにくいので以下、例示とする。
「オズの魔法使い」
始まり:ハリケーンにより家ごと吹き飛ばされ、オズの東の国に着陸する ※採用
終わり:銀の靴を履いて、踵を三度鳴らして回る(グリンダより教えてもらう)
「不思議の国のアリス」
始まり:ウサギを追って、穴に落ちると不思議の国へ到着 ※採用
終わり:クイーンの命令でトランプがアリスに襲い掛かるところで目が覚める
「鏡の国のアリス」
始まり:暖炉の上にかかっている鏡を通り抜けて、鏡の国へ到着 ※採用
終わり:赤の女王を揺さぶると子猫に戻っていて目が覚める
この三つの物語を統合して、展開を作っている。
つまり、ざくろは各物語を逆走し、入り口から出ようとするのである。
この段階で案内人としてはシラノからソクラテスの悪魔に引き継がれるようにしている。
シラノは月世界を離れることはない。そうなると境界に存在するのは地球を行き来できるソクラテスの悪魔のみである。
ざくろは、ウサギの穴から上昇し、カンザスの竜巻に乗りながら、ソクラテスの悪魔が用意する鏡を通り抜けて帰還した。
帰還の際の竜巻についてはサン・テグジュペリの「人間の土地」を想像しながら作成した。
「人間の土地」ではサハラ砂漠での壮絶な体験が描かれている。
食料も水もなく永遠と彷徨う、すぐ隣には死がいる。その中で帰還への道をただ奇跡を信じて歩き続ける。
Ⅳ 全体
■これは一体何なのか?

芥川龍之介の作品に「藪の中」というものがある。
ある夫婦の夫が盗賊に殺された。殺された際の供述を聞くと妻、盗賊、死んだ夫とそれぞれの供述が矛盾するのである。
一方でどの供述もどこかしらの事実が混じっているように見えるのは確かで、これは各人の世界に対する認識が大きく異なることを証明する。
まさに素晴らしき日々もそのような作品である。とある一人の見た世界と別の一人の見た世界が異なる。
世界を作り上げるのは人の頭の中である。これが考え方の根底にある。
ということで、「藪の中」に倣い、ここまでの戯曲の正体はあえて正解を作らないでおいた。
このお話は捉えようによっては様々な解釈が出来る。
「高島ざくろが死ぬ前の妄想」
「高島ざくろの死後、表象を出力する体はなくなったが、不滅の意志が冒険をしていた」
「高島ざくろは死んでおらず、実は月へ到着していた」
「水上由岐が見ていた高島ざくろに関する夢だった」
「ある人物の頭の中にいる高島ざくろと水上由岐の物語であった」
いずれにせよ、この月世界旅行の手記には事象のみ提示されている。
素晴らしき日々は普遍的なテーマを扱う。人の世界に対する認識、人の生きる目的に対して物語を通してアンサーを伝える。
では、その話をそのまま映像化するだけで良いのか。それは表層だけの理解ではないのか?
そんな疑問が常につきまとっていた。結局、自分は戯曲というフォーマットを使って普遍的な映像を作りたかったのかもしれない。
■楽曲について
今回はクラシックギターの奏者として有名なyasu氏の演奏をお借りした。
yasu氏の音楽との出会いは20年以上前になる。
当時、フラッシュ全盛期の頃に「ハクシャクノテンシ」という映像があり、そのBGMとして使われていた。
https://www.youtube.com/watch?v=fif5NVCgGUI
天使は絶望して自死を考えている。そんな中でドラキュラらしくない伯爵が天使を励ますのだが、
その際に天使が伯爵に恋をし、希望を見出すときに流れるのが第一幕で利用していたテーマ曲だ。
シラノの登場は死を目前としたざくろにとっては希望である。
yasu氏は今は少し前に流行った「Ib」で楽曲を担当して有名になっているので、
Ibをプレイした方はそのメロディーラインに聞き覚えがあったのではないか。
■幕

幕ごとの舞台説明のデザインはそれぞれの幕に合わせて以下のデザインとしている。
第一幕:アール・ヌーヴォー
第二幕:アール・デコ
第三幕:バロック
第一幕は月世界を優雅に旅する構想から植物系を基調とし、第二幕はより象徴的でモダンな雰囲気を出すために幾何学模様中心、第三幕は帰還のための船旅を連想して動きのあるバロック形式とした。
また、各幕ごとの違いは実は国柄も関係している。
第一幕:フランスの作家で構成 シラノ、サン・テグジュペリ
第二幕:イタリア、ドイツ・チェコの作家で構成 ロダーリ、マン、カフカ
第三幕:イギリス、アメリカの作家で構成 キャロル、バイロン、ボーム
これはあまり意図してはいないのだが、不思議なことに第一幕はフランスらしいロマン主義的な映像、第二幕はドイツや中欧強めの難解な映像、第三幕は英米に象徴される冒険的な映像が結果的に完成した。
そう考えるとベースにする作家によって映像も図らず影響を与えられるというのは面白い結果ではないだろうか。
■エンドロール

これは戯曲であるため、上演される必要がある。
上演されるということは各配役を演じる俳優がいる。
俳優がいるのであれば、俳優と配役を紐づけなければならない。
アルベール・カミュが「シーシュポスの神話」で俳優について言及している文章がある。
カミュは俳優を不条理な人間とし、割り当てられた人間が劇の始まりに生まれて終わりに死ぬからだとする。例えば、シェイクスピアのハムレットを演じる場合にハムレットという人間は俳優の体を借りてしか、この世界に存在することが出来ない。
すなわち俳優が演じている間だけ、この世界にはハムレットが生きている、という状態になる。
この「月世界旅行記」の登場人物もこのMADの6分間の中でだけ生きて、終わりに死んで何もなくなっていく。
【その他雑多なあれこれ】
■フォーマット論
冒頭で「ファウスト」を手本としたと記載したが、この類型は遡るとダンテの「神曲」に行きつく。
「神曲」はダンテ自身が地獄や煉獄、天国を旅するというお話なのだが、この案内人としてダンテより遥か過去の詩人ヴェルギリウスが道案内を務める。
過去の偉人が現代の主人公の異世界旅を案内するというフォーマットは古今東西、名作に共通する普遍的なものである。
例えば、シラノの「月世界旅行」ではソクラテスの悪魔、「太陽世界旅行」では聖職者であり哲学者でもあったトンマーゾ・カンパネッラ、ヘミングウェイやダリなど案内人が沢山いる「ミッドナイトインパリ」、「風立ちぬ」のカプローニ。
フォーマットを取り出し、いかにオリジナルな要素を取り入れるかが、いい作品を作るための重要な要素だと考えている。
それは他の古典でもあるいは別分野のモチーフでも何でもいい。
例えば「終末系」の作品はあるが、「ゾンビによって滅びた世界」をフォーマットにしてしまうと一般的なゾンビ映画になるわけだが、
「滅びた世界」をフォーマットにすると幾らでも新しいものを組み合わせることが出来る。
そもそもの終末は旧約聖書の「ノアの箱舟」から始まり、ヨハネの黙示録、新約聖書の「審判」にも共通する普遍的なフォーマットである。
ノベルゲーとして大ヒットした「白昼夢の青写真」も見方を変えれば、「ノアの箱舟」を電脳世界で行い、人類の原罪を背負って死んだキリストをヒロインとしたら周りの人間はどう思考するかをシミュレートした作品のように見える。
つまり、良い作品を作るためには、具象的ではなく、いかに普遍的なフォーマットを取り出し、そのフォーマットに対してさらに普遍的なフォーマットを加えて、独創的な作品を作るかという遊びなのである。
■MADにおける普遍認識
哲学においては相対主義を忌避する傾向にある。一方で世の中は多様性、相対主義の時代である。
「みんな違って、みんないい」これは一見耳障りが良く、真理のようにも思えるかもしれないが、真理の追究を諦めるに等しい。
しかし、絶対的な真理を見つけることはさらに難しい。
では、何があるか?ここにカント以降の「普遍認識」という存在がある。
人間の価値観を会話や議論により擦り合わせていく。すると、ある程度の多数で普遍的に共通する認識があるという。
これを普遍認識と呼ぶ。この普遍認識は絶対ではないが、一定以上の確実性がある。
とすると、MADにも普遍認識は存在しないだろうか。
この普遍認識をMAD作者は一定数のMADを見て確立するとしたら、どうだろうか。
特定のデザインが良い、特定の動きが良い、特定のカメラワークが良い、特定の構成が良い、これはある程度の確からしさがある普遍認識と成りうるかもしれない。
しかし、このMADにおける普遍認識は場合によっては、たった10年程度の期間に作られた未検証の普遍認識かもしれない。
このMADは恐らく過去にあまりとられていない表現をとっている。
通常のMADは楽曲があり流れるような映像がつく。
文字で表現することは冗長とされ、映像として語るべき。画面が静止画で動かないのは問題外。画面転換はモーショングラフィックスを使いスムーズに。キャラクターは自然に動かそう。長すぎるMADは途中で飽きるためにシンプルに短く。曲は最大二曲が妥当。様々な暗黙の普遍認識が存在する。
「月世界旅行記」はそのような制約事項を全て無視している。
ほぼ全ての画面展開を文字で表現、画面は静止画。6分超え、曲は5曲を使用。
なぜ、この形式になったかと言えば、仮に戯曲をMADとして表現した場合に
最も自然で違和感がない構成が通常のMAD制約を全て破る構成だったからだ。
仮にもしこのMADがつまらないものだと感じたのであれば、それは普遍認識と同じ価値観を有し、やはり現在に築き上げられた普遍認識は正しかったという証明の一つの事例となるかもしれない。
一方でもし面白い、良いと感じてしまったのであれば、MADにおいて築き上げられた10~20年の普遍認識は必ずしも当てはまらず
新たな価値観の存在を予見するものである。
【おわりに】
直近で横浜美術館に今村紫紅の回顧展を見に行ってきた。
紫紅は新南画を切り開いた一人と言われているが35歳で夭折した。
その絵の構図はあまりに大胆であり、白抜きの部分を滝と表現したり、「大井川」の斬新な構図とインスピレーションの宝庫であった。
彼が生きていれば、横山大観や下村観山、竹内栖鳳のような日本画の最重要画家になっていたのではないか。
ちなみにサクラノ刻で言及される速水御舟も紫紅と同門の松本楓湖の安雅堂画塾に入塾しており、御舟にとって紫紅は兄弟子であり、初期は多大な影響を受けている。
そもそもの南画だが、明の時代に中国の南北で画家を分けた場合に、南で発達した山水画が日本に持ち込まれ、明治期に流行り消えていったという理解である。イメージは掛け軸に山の風景が描かれ、漢詩が添えられている絵を想像してほしい。
南画においては元々は文人画とも言われており、絵師が描くのではなく、哲人が描く絵である。
哲人の絵は添えられた文も非常に重要であり、絵が必ずしも全てではないという。
紫紅が大きく影響を受けた中に、富岡鉄斎がいる。
富岡鉄斎は自分を絵師としてではなく、哲人であると捉え、その過程で絵が出来ている。
他の画家の晩年が皆、力を失っていく中で富岡鉄斎だけは晩年になればなるほど絵の出来が良いと言われている。
これはいわゆる哲人の描く南画であるからだ。人の精神の成熟が絵に表れるからだ。
映像でも同様のことが言えるのではないかと私は思う。
そんな紫紅は紅児会という会を主宰し、後進に「僕は壊すから、君達建設してくれ給え」と言っていたようである。
紫紅はインドに渡り、死の2年前に「熱国之巻」という大作を完成させている。
これは長大な絵巻物であり、一般的な絵巻物の大半が日本内の歴史画や古典であった概念を覆し、現代の海外の風景を絵巻物としたものである。
紫紅はその他、将門図を描いたことで当時の尊王気風にあった師の松本楓湖を怒らせたりと常に破壊を繰り返していたように見える。
同様にフランスでは19世紀にマネが「草上の昼食」や「オランピア」を出し、当時の絵画の潮流を破壊した。
戯曲ではコルネイユが「ル・シッド」により三一致の法則を破壊したという。
破壊は言論からは成り立ちえない。別の作品を作ることで既存の概念を破壊する。
これからもそんなMADを作っていければと思う。
















































