「世界限界の向日葵と永劫回帰の櫻」について

 

◆はじめに

この記事はMADMAX2023に提出した「世界限界の向日葵と永劫回帰の櫻」について、解説を加える記事です。
本作は芸術を主題としたサクラノ刻を題材にしています。

 

そのため、通常のMAD以上に芸術的な性質を持たせています。

 

簡単に言えば、美術史、哲学、詩、音楽等の知識を持つ批評家や作り手が解説を加えることで初めて価値を持つMADと言えます。

 

これは芸術全般の特徴で、フォービスムが何かを理解せずにマティスを見ても良さが分からない、オランピアの元ネタを理解しなければマネの革新性に気付けない、と同様に視聴者に一定の知識を要求するMADです。

 

写真が登場するまでの絵画は遠近法、陰影のつけ方等の写実性が一定の評価基準になりえたので、絵の「上手さ」が評価されていました。しかし、その後、ポスト印象派、フォービスム、キュビスムドイツ表現主義、抽象表現主義シュールレアリスムポップアートと写実性での芸術評価は極めて困難になりました。

芸術を評価する上では作者の思想、かつ過去の美術史の軸を見てどの画家もしくは思想家、詩人、音楽家などの影響を受けて、何を表現したかを作家自身が解説するか、批評家が読み取ることが重要となっています。

 

 


◆本作の解説

Ⅰ 哲学、詩、絵画、音楽、宗教の融合

Ⅱ ゴーギャン絵画の模倣

Ⅲ 絵画的性質の付加 

Ⅳ 詩的性質の付加

Ⅴ 音楽的性質の付加

Ⅵ 哲学的性質の付加

Ⅶ 宗教的性質の付加

Ⅷ その他の特殊演出

 

 

◆Ⅰ 哲学、詩、絵画、音楽、宗教の融合

サクラノ刻は哲学、詩、絵画、音楽、宗教が高いレベルで融合している作品です。

すかぢ氏の作品は素晴らしき日々からサクラノ刻に至るまで、
ヴィトゲンシュタイン哲学の思想を根幹に、エミリー・ディキンソンの詩をなぞりながら、エリック・サティの音楽が流れる中で展開しているように思います。

 

同時代や同分野の作品を下地にして、自己の感性や思想をもとに作品を作るクリエイターが多い中で、すかぢ氏の作品は異時代、異分野の要素を取り入れて、かつ思想を練り込んだ作品のため、その特殊性からかなりのプレイヤーから支持されていると考えています。もちろん、すかぢ氏以外のライターでも過去の作品を読み込み自分の作品に活かされている方は多くいるとは思いますが、
すかぢ氏は別格と捉えています。


過去の人間の思想や芸術を下地に、自己の思想を追加もしくはそのアンチテーゼとしての思想を加えて、作品を作ることでより多くの人の心に響く作品が出来る…その結果がサクラノ刻の人気や魅力なのだと思います。

 

これはMADでも同様のことが言え、多くのMAD作者は同時代(2010年~2020年代)の
同分野(MV、PV、MAD、アニメOP)を下地に自己の感性でアレンジしながら制作を続けることが大半です。
それでも十二分に良い映像は出来ると思うのですが、異質なMADを作っていくにはこれだけでは足りないと思っています。

そのため、今回は異時代(1400年~1950年)の異分野(哲学、絵画、詩、音楽、宗教)を取り入れたMADを実験的に制作するということが最大の目的となりました。

 


◆Ⅱ-1 ゴーギャン絵画の模倣 ~なぜ、ゴーギャンか~

その上で、本作は、自分なりの「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか(ポール・ゴーギャン)」を目標地点に置きました。
なぜ、ゴーギャンかはサクラノ刻をプレイすることで理解できます。

 

草薙直哉は「自身の哲学を絵画に織り交ぜて表現する」、夏目圭は「画家自身の感情を絵画に混ぜ込む」という特徴があります。このスタイルは似ているようで全く異なり、「目に見えないもの」を表現する点では共通していますが、思想の根底が異なります。
両者の違いはゴーギャンゴッホの絵画に対する姿勢とほぼイコールです。

 

ゴーギャンゴッホが共同生活の末、破綻し最後にゴッホが片耳を切り落としゴーギャンに送りつけようとした逸話は有名ですが、そこには思想の不一致も大きかったと言われています。本編では、喧嘩別れはしませんが、直哉と圭は二人を意識したキャラクターでした。

 

また、別視点で見ると、素晴らしき日々より引用されているサマセット・モームの「月と6ペンス」こちらの物語に登場するチャールズ・ストリックランドはゴーギャンがモデルだと言われています。月は非日常、6ペンスは日常。月と6ペンスの最後はストリックランドの遺言により、彼の最大の大作である家の壁にかかれた壁画は家ごと燃やされます。ストリックランドの最期に駆け付けた医師だけがその「美」を目に焼き付けて物語は終わります。


サクラノ刻で恩田放哉が絵を燃やしたのも、同様に直哉の絵画が人々に感動を与えて焼失したのも、月と6ペンスが下地になっているのではないかと
思いながらテキストを読み進めていました。

 

すかぢ氏にとっての草薙直哉は自己の思想の投影。もう一人のストリックランド。そして、ゴーギャン。そのため、サクラノ刻でMADを作るのであればゴーギャンの思想を忠実に再現した冒険したMADを作るべきだと思い、ゴーギャンの特徴を取り入れたMADを作ろうと考えました。

 

 


◆Ⅱ-2 ゴーギャン絵画の模倣 ~ゴーギャン絵画の特徴~
下記の三つが一般的にゴーギャン絵画でよく言われる特徴であり、今回のMADで意識したポイントです。

 

①総合主義
「説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)」が例として取り上げられることが多いですが、空想の世界(ヤコブと天使の闘い)と現実の世界(説教を聞いた人)が同じ画面上にいます。これは当時としては新しいことで、それまでは写実主義は現実の世界のみを画面に投影し、象徴主義は空想の世界のみを画面に投影しているように、二つの世界を混ぜた作品はこれより前にはありませんでした。(探せばあるかもですが…
   
この総合主義に倣って、空想の世界(サクラノ刻)と現実の世界(歴史上の哲学者、詩人、画家、音楽家)を同じ作品上で表現することで、新しいMADとしたいと考えて制作しています。   

 

②プリミティブ
ゴーギャンは先進的なフランスを起点とした世界ではなく、よりプリミティブ(原始的)なタヒチを理想郷として描きました。ゴーギャンのこの試みは成功し(彼自身が自殺未遂までしているので本人は成功と捉えていないかもしれませんが)、タヒチの人々を描くことで今までになかった表現に辿り着いています。
今回はゴーギャンに倣って、MADの映像表現におけるキャラクターアニメーション、3D空間の多用を排斥し、カメラでも動きは付けずに、より原始的な表現としています。


③哲学、宗教と絵画の融合
ゴーギャン絵画の特徴として、ゴーギャン自身の哲学や宗教観が盛り込まれているという点があります。「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」は死生観、輪廻転生を表し、トマス・カーライルの「衣服哲学」よりタイトルをとったという説もあります。タヒチの人間を聖母子に見立てた「マリア礼拝」、「ヤコブ・メイエル・デ・ハーンの肖像」には、ミルトンの「失楽園」と先ほど挙げた「衣服哲学」が描き込まれています。
   
この手法を真似て、自分の今回のMADでは哲学、宗教、詩、音楽、絵画を混ぜ込んだMADにしようと考えました。

 

 


Ⅲ 絵画的性質の付加 

 

①絵画のオマージュについて

マネは「草上の昼食」「オランピア」「フォリー・ベルジェールのバー」など、元ネタがある絵を描いています。例えば、ティツィアーノやベラスケスを参考に自分の時代に合わせた表現を試みています。

「草上の昼食」 
元ネタ「田園の合奏」 ティツィアーノ  「パリスの審判」 ライモンディ


オランピア
元ネタ「ウルビーノのヴィーナス」 ティツィアーノ


フォリー・ベルジェールのバー」
元ネタ「ラス・メニーナス」 ベラスケス

今回のMADではマネや過去の西洋絵画に倣って、引用もしくはオマージュを取り入れています。

 

・(0:01)我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか ポール・ゴーギャン
本編のテーマとなります。

 

・(0:08)オランピア エドゥアール・マネ
本編に登場する絵画です。サクラノ詩では贋作という観点でこの作品が一つのシンボルとなります。

 

・(0:11)印象・日の出 クロード・モネ
本編に登場する絵画です。泥棒カササギの章でルイ・ルロワに批判されたという逸話が語られます。

 

・(0:15)ひまわり フィンセント・ファン・ゴッホ
本編で圭が描いたひまわりはゴッホのオマージュと思われます。


・(0:17)醍醐 奥村土牛
本編で登場する画家です。桜の絵画で有名です。

 

・(0:30)自画像 ポール・ゴーギャン
ゴーギャンが直哉に向かって語り掛けるイメージで映像を作っています。

 

・(0:32)ブラン氏の肖像 エドゥアール・マネ
草薙健一郎はマネと同様の指導者としての位置付けだったのではないかと思います。
マネは印象派の指導者でした。ここでは指導者としての健一郎が登場します。

・(0:32)自画像 エドゥアール・マネ

  

・(0:41)大使たち  ハンス・ホルバイン
引き延ばされた髑髏、棚の上の天球儀、下段の地球儀は地獄、天国、現世を指します。若い二人と死を隣り合わせで描くことでメメント・モリを表しています。

 

・(0:41)死の舞踏 ハンス・ホルバイン
圭の傍らに架けられている絵はホルバインの死の舞踏の絵となります。
ペスト流行時には死は平等というところが救済となり、流行った画題です。
ここでは圭の身に迫っている死を表します。

 

・(1:03)スフィンクス、ミロのヴィーナス、キリスト降架(ルーベンス
Ⅵ 哲学的性質の付加で解説します。

 

・(1:04)古靴 フィンセント・ファン・ゴッホ
Ⅵ 哲学的性質の付加で解説します。

 

・(1:06)モナ・リザ
Ⅵ 哲学的性質の付加で解説します。  

 

・(1:12)1873年ウィーン万国博覧会ロシア館の海軍部の建物の設計図 ヴィクトル・ハルトマン

Ⅴ 音楽的性質の付加で解説します。 

 

・(1:12)バレエ《トリブィ》のための衣裳デザイン ヴィクトル・ハルトマン
Ⅴ 音楽的性質の付加で解説します。     

  

・(1:15)カラスのいる麦畑 フィンセント・ファン・ゴッホ
ゴッホの自殺(?)前の晩年の作品。麦畑の奥には死の象徴であるカラスが群れを作っています。心鈴の絵画にはミサゴとカラス(圭の死)が付きまといます。

 

・(1:22)フォリー・ベルジェールのバー エドゥアール・マネ
鏡を活用したマネの晩年の大作、給仕の後ろにある鏡は対面の人間を映し出します。鏡に映る給仕は少し不自然な角度に見えます。今回はワイン好きの静流と直哉の会話シーンということで使っています。ワインの作られた年は1999、2012、2015です。

 

・(1:26)悪の華の挿絵 オディロン・ルドン
Ⅳ 詩的性質の付加で解説します。

 

・(1:29)叫び エドヴァルト・ムンク
ムンクの有名な絵画およびムンクによって加えられたコメントを引用しています。

 

・(1:30)No.シリーズ マーク・ロスコ
カラーフィールドペインティングとして有名です。千葉の川村記念美術館のロスコ―ルームでは神秘的な体験が出来るそうです。今回は圭の「大きな音が鳴り、空と大地が混ざる」というセリフに合わせて展開させています。

 

・(1:31)黒の正方形  カジミール・マレーヴィチ
抽象表現主義。直哉はひたすら黒を塗った。これは無対象を意味しています。
対象物ではなく、別の目に見えない何かを表現しようとしたという意味としています。

 

・(1:46)笑う自画像 リヒャルト・ゲルストル
狂気の表現として、ゲルストルの絵画を参考に作成しています。

 

・(1:51~1:54)
多すぎるので割愛しますが、ルネサンス以降の絵画をほぼ時代やグループ別でまとめながら登場させています。大体100枚くらい使っています。

  

・(1:56)ウルビーノのヴィーナス ティツィアーノ・ヴェチェッリオ
マネのオランピアのもととなった作品です。オランピアでは足元にいるのは猫ですが、こちらでは犬です。この後のオランピアは草薙健一郎の象徴的な絵画で、オランピアに目を開けさせる前にオマージュもとにも目を開けさせています。

 

・(1:58)生きる喜び アンリ・マティス
楽園をフォービスムで描いたマティスの作品です。今回は直哉が見る楽園の隠喩としています。

 

・(2:00)デカルコマニー ルネ・マグリット
直哉の断筆、画家としての停滞を主役不在の切り抜きとしています。
切り抜きの向こうには生きる喜びが見えています。

 

・(2:01)ゴルコンダ ルネ・マグリット
よく見ると大量の人間の顔は一人一人違います。一方で全体としては集団として見られてしまい個は喪失します。サクラノ刻の新生美術部の個の喪失に当てています。

 

・(2:02)水平線の神秘 ルネ・マグリット
三人にとっての月はまるで違います。同じ月であっても三人が別の月を見ています。それは三人が見ている方向が違うためです。

 

・(2:03)暗殺者危うし ルネ・マグリット
手前は未来、奥へ行くほど過去を指します。奥の健一郎と手前の紗季、礼次郎の時空は違います。
          
・(2:03)死霊は見ている ポール・ゴーギャン
ゴーギャンタヒチで現地の死霊が少女を見ている絵画を描いています。
こちらでは死期が近い健一郎を死霊が見つめているという隠喩となります。

 

・(2:05)複製禁止 ルネ・マグリット
鏡は物体を転写できますが、人間の心までは転写が出来ません。笑顔の静流は鏡では後ろめたさを持ち、怒り顔の麗華は鏡では笑顔を見せます。それは贋作を見ている静流は後ろめたさを感じているが、麗華には本物と見えているからです。一方で鏡は物体である雪景鵲図花瓶 だけは鏡に正確に転写されます

 

・(2:05)エマオの晩餐 ハン・ファン・メーヘレン
ナチスフェルメールと偽って贋作を売りつけたメ―ヘレンの絵を置いています。彼はナチスから絵画を取り戻したことで国民的英雄となりました。ここでは贋作という意味です。

 

・(2:05)真珠の耳飾りの少女 ヨハネス・フェルメール
メ―ヘレンの絵画との対比で持ってきています。ここでは真作という意味です。
  
・(2:07)イメージの裏切り ルネ・マグリット
マグリットはパイプの絵を描き、これは「パイプではない」と添えました。つまりパイプではなく、絵だからです。寧を描いた心鈴の絵はどこまでも寧の性質を表しますが、それは絵であり本人ではないという意味となります。

 

・(2:08)恋人たち ルネ・マグリット
マグリットの不穏な絵画と異なり、優美と里奈の二人は顔を見せあっています。

 

・(2:09)解体されるために最後の停泊地に曳かれていく戦艦テメレール号 
     ウィリアム・ターナー
戦艦テレメールは時代を終え、新たに産業革命により発明された蒸気船がテレメールを曳いていく絵です。圭が生きた時代は終わり、新たに心鈴の時代を迎えようとしています。

 

・(2:09)死の島 アルノルト・ベックリン
ベックリンの作品で死を連想させる絵画です。ここでは圭の未来を示しています。

 

・(2:10)記憶の固執 サルバトール・ダリ
圭と心鈴の時間は終わり、圭の時間は溶けた時計のように止まります。

 

・(2:11)人間の条件 ルネ・マグリット
壁にかかっている絵は主観世界、壁の向こうは客観世界に当たります。
心鈴の頭の中の経験が絵画へと出力されていきます。

 

・(2:12)人の子 ルネ・マグリット
圭がどんな顔をしているのか、向日葵に覆い隠されていて見えません。

 

・(2:12)大家族 ルネ・マグリット
マグリットは鳥から青空を連想するとしたそうです。
曇り空の絶望の中で燕からは希望の青空を連想させます。

 

・(2:13)NEVER MORE ポール・ゴーギャン
Never moreというテキストはゴーギャンの絵画から着想を得ています。
元を辿るとエドガー・アラン・ポーの大鴉という詩となります。

 

・(2:15)サント・ヴィクトワール山 ポール・セザンヌ
セザンヌは普遍性を意識しました。それは永遠の相への入り口を隠喩としています。
  
・(2:15)リンゴとオレンジ ポール・セザンヌ
セザンヌの絵は複数の視点からの静物を統合することで普遍性を表現しました。
心鈴、真琴、寧はそれぞれ別の視点から見られているため、本来このような構図にはなりえません。これは絵画、映像であるため表現できる普遍性です。

 

・(2:19)生命のダンス エドヴァルト・ムンク
永遠の相では生の女と死を迎えつつある女は融合するという意味です。
すなわち永遠の相において、生も死もありません。
  
・(2:19)月光 エドヴァルト・ムンク
死の象徴である月と生の象徴である太陽も融合します。

・(2:19)太陽 エドヴァルト・ムンク

 

・(2:33)コリウールの開いた窓 アンリ・マティス
圭は色彩の向こうの果てへ旅立とうとしています。窓からは沢山の向日葵が見えています。

 

・(2:41)ラス・メニーナス ディエゴ・ベラスケス
ベラスケスはラス・メニーナスで鏡によるトリックを利用しています。
この絵に描かれているのはマルガリータ王女ですが、実はこのマルガリータ王女を見ている国王夫妻の視点がテーマであるということが鏡により分かるものとなります。
「この10年はどうだった?」と聞かれた直哉の視線の先には、サクラノ刻で交流した人々の姿があります。鏡に映るのは直哉と藍。これは直哉と藍の視点となります。

 

・(2:47)ピエタ ミケランジェロ・ブオナローティ
藍は聖母として描かれています。今回はフォービスム的に赤、黄、青を基調としています。

 

・(3:02)サロメの挿絵 オーブリー・ビアズリー
オスカー・ワイルドサロメの挿絵で有名なピアズリー。彼の挿絵のサロメのイメージはギュスターヴ・モローの「出現」が由来です。モローがサロメファム・ファタール(運命の女)として捉え何枚も絵を描いており、それが今日のサロメ像に繋がっています。この観点で言えば、心鈴は本人にその気がなくとも、人の人生を変えてしまうファム・ファタールであり、運命の象徴となります。

 

・(3:30-)女性の三相 エドヴァルト・ムンク   
     女性の三時代 グスタフ・クリムト
稟、真琴、水菜と健一郎、藍と直哉の三時代を一つの絵として載せています。

 

 

②キャラクターを画家として意識する

各キャラクターを映像として表現する際に画家のモデルイメージをもとに作成しています。

草薙直哉 ポール・ゴーギャン
夏目圭 フィンセント・ファン・ゴッホ
御桜稟 モデルなし(表現上は佐伯祐三、モーリス・ユトリロ、リヒャルト・ゲルストルを意識)
長山香菜 アンリ・ルソー等の素朴派
本間心鈴 パブロ・ピカソアンリ・マティス等のキュビスム、フォービスム
氷川里奈 エドヴァルト・ムンク等の象徴主義
鳥谷真琴、静流 クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワール等の印象派

 

少し解説を加えます。

 


美の神としての存在のため、モデルや絵画上の特性はあまりないと感じました。
ただ、稟自身が美の狂気を表現するキャラクターでもあるため、狂気的な画家を意識して画面作りを行っています。画家の生い立ちは割愛しますが、三人ともかなり壮絶な人生を辿っているためか絵に異常な力があります。

 

香菜
凡人代表ということで日曜画家で素朴派と言われているルソーをイメージしながら、一部の絵作りをしています。

 

心鈴
天才代表ということでピカソマティスをイメージしつつ絵作りをしています。実際の心鈴さんはもう少し写実寄りの絵を描くような気がしていますが、天才っぽさを出したかったので…。

 

里奈
分かりやすく概念を描く画家という描写がされているので象徴主義的に冬虫夏草や狼、キノコなどの象徴を加えています。

 

真琴、静流

印象派のように目に見える現実を見据えた二人だと思います。

 

また、キャラクターとは別に「普遍性」、後述する「永遠の相」へ繋がる画家としてポール・セザンヌを意識しています。セザンヌは「自然を円筒形と球体と円錐体で捉えなさい」という言葉が有名な近代絵画の父ですが、色々な解説を読んでいると、結局は印象派のような一瞬の時ではなく永遠に普遍性のある林檎を描きたかったのだと理解しました。そのため、永遠の相の前にセザンヌ的な映像を設置しています。

 

 

西洋美術史の流れを意識する

 

全体の流れとして、西洋美術史の流れを意識しながら作成しています。

0:47  バロック
0:52ー 写実主義
1:14ー フォービスム、クロワゾニスム、印象派
1:34ー 表現主義象徴主義
2:00ー シュールレアリスム

一つの動画で西洋美術が流れるように作りたかったというのが想いにあります。

 

 

 

◆Ⅳ 詩的性質の付加

芸術において画家、音楽家が詩を題材にした作品を作ることは一般的です。

サクラノ刻の本編でも出てきたマラルメですが、ドビュッシーラヴェルによりマラルメの詩を題材に作曲した「マラルメの3つの詩」や「牧神の午後への前奏曲」などが作られています。他にもドラクロワの絵にボードレールは傾倒し、そのボードレールマラルメが傾倒し、マラルメの詩にゴーギャンがインスピレーションを受ける…といったように画家と詩人は強いかかわりを持ちます。

 

今回はサクラノ刻で登場した詩人を中心に、19世紀の象徴主義のフランス詩人やアメリカ詩人を加えて本編の性質を表現したシーンを取り入れています。

 


①エミリー・ディキンソン
エミリー・ディキンソンはアメリカでは大変有名な詩人で、生前は無名でしたが、死後に爆発的な人気が出た詩人の一人です。これはゴッホ宮沢賢治などにも似ている部分があるかもしれません。すかぢ氏の作品の根底にはいつもエミリー・ディキンソンがいるように思います。
  
今回、ディキンソンの詩は一番多く登場させています。
  
・脳は空より広い(3:14)
・わたしが死へと立ち止まれなかったので(0:39)
・あなたが秋に訪れるのなら(2:14)
その他にもルネ・マグリットをテーマとした箇所では全てディキンソンの詩を引用しています。

「あなたが秋に訪れるのなら」は後述の「Never More」への対抗として燕が「Ever More(いつか、永遠に)」と答えているシーンで利用しています。このMADを作るために色々と調べていて気付いたのですが、アメリカのシンガーソングライターのテイラー・スウィフトさんが2020年にリリースしたアルバムも「ever more」というタイトルでファンの間ではディキンソンに当てて作られたものではないかと言われているそうです。
 
「あなたが秋に訪れるのなら」の一節で、

 If certain, when this life was out  もし、この世界での生が尽きた時
 That yours and mine should be    あなたと私の生があるならば
 I'd toss it yonder, like a Rind,  私は「この世界の生」を果物の皮のように破り捨て
 And take Eternity   「永遠」をとるでしょう
 
というものがあり、ディキンソンの二人の魂の出会いが「永遠」を表します。
これは直哉と圭の永遠を表し、永遠の相と繋ぐために普遍性のセザンヌの林檎と剥かれた林檎の皮を接続しています。
  

 

ステファヌ・マラルメ
ステファヌ・マラルメはフランスの詩人であり、フランスの代表的な詩人としては真っ先に名前が上がります。マラルメは初期にボードレールの詩を読み、その詩のコピーを自分の詩に添えたと言います。彼の詩は音楽的と言われており、フランス語が分からない私は日本語でした意味が分からないのが本当に残念ではあるのですが、フランス語の音の響きはまさに音楽と言えるのかもしれません。

  ・乾杯
  ・ヘロディヤード
  ・青空

乾杯はゴーギャンタヒチの船出を連想させるものとして冒頭で登場させました。
このMADとしてもタイトル前の船出という意味合いも込めて引用しています。ヘロディヤードはヘロデ王の妻であり王妃すなわち、サロメの母親を指します。今回心鈴が絵を描くシーンでの仏文はヘロディヤードの一節です。サロメ象徴主義でよく使われるテーマでモローからマラルメオスカー・ワイルド、ピアズリーと大人気の主題です。

ロディアは洗礼者ヨハネを疎ましく思い、いつか処刑したいと考えていた一方で、ヘロデ王は聖人と呼ばれるヨハネを殺すことは躊躇っていました。
ある日サロメが余興で踊り、感動した父ヘロデ王は「望みに何が欲しい?」と問います。この時にへロディアサロメに入れ知恵をして「聖ヨハネの首と言いなさい」と言い、サロメは従いヘロデ王に「聖ヨハネの首を」と言います。結果、ヘロデ王は悩んだ末、娘のお願いを叶えることして、聖ヨハネは斬首されます。

この詩ではヘロディヤードと言っていますが、王妃のことではなくサロメのことを指します。マラルメは「虚無の後に美を見つけた」と言いましたが、心鈴の人生に強くリンクしている思想です。

また、青空は稟の狂気を表現しているシーンで佐伯祐三の書き文字表現のオマージュでマラルメの詩が使えないかと思い、青空という詩を入れています。ヘロディヤードにも青空と言う一節がありますが、マラルメにとって青空は「理想」でした。
これは詩人が青空という「理想」に挫折し、青空を覆い隠すように叫ぶ詩です。美という理想で多く死んでいった画家もいると思います。美を体現している稟だからこそふさわしい詩だと思いました。

 

 

宮沢賢治
宮沢賢治サクラノ詩でテーマとなった詩人です。サクラノ詩の「春と修羅」に因果交流電燈という賢治独自の概念が登場しますが、これが「永遠の相」や仏教思想の「重々帝網」と近い考え方の詩なのではないかと思います。
   
春と修羅
前半のサビ部分で春と修羅の一節を引用することで詩的な絵作りが出来ないか試みています。   

(1:15)
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね

青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ

(1:16)
ZYPRESSEN 春のいちれつ
   
後半(2:19)で春と修羅を引用しているパートは「永遠の相」を再現しているものとなっています。ここは生死もなく、時間もなく、有も無もない世界。その中で直哉は圭と再会を果たします。生死がない世界のため、現実世界のキャラクターが大人になったり子供になったり、死んだはずの人がその世界にはいます。

  


シャルル・ボードレール
エドガー・アラン・ポーのフランス語訳でも有名ですが、最も有名な著作としては「悪の華」かと思います。「悪の華」はマラルメの源流となった作品の一つで当時の詩人や音楽家、画家などあらゆる芸術に大きな影響を与えました。

悪の華

今回、ボードレールからは二つ引用しています。
冒頭の心鈴の深淵の目の表現、および恩田放哉の思考に一部ある「悪」とも言える内面で悪の華の挿絵を描いたルドンの絵をもとに自筆で似た絵を描いて投入しています。

 


エドガー・アラン・ポー
アメリカの大詩人であり、作家です。ボードレールはポーの詩に感銘を受けて、フランス語訳をしており、フランスの象徴派詩人へ大きな影響を与えています。ポーがいなければ、ボードレール悪の華を出さず、マラルメも詩人を志さなかったかもしれません。

・大鴉(2:13)

今回はポーから、「大鴉」という詩の一節「Never More」を引用しています。


これは主人公の男が恋人レノーアを失い嘆き悲しんでいると突然、大鴉が入ってくるという詩です。男が何を問いかけても鴉は「Never More(もう二度とない)」と答えます。主人公が最後に「天国で恋人と会えるか?」と尋ねても、鴉は無情にも「Never More」と言うだけです。「大鴉」はとても人気がある詩で、挿絵をマネが書いています。この一節と同タイトルの詩をヴェルレーヌも書いており、ゴーギャンの唯一の英語タイトルの作品「Never More」もこの詩より、インスピレーションを受けていると言われています。ここでは、圭との再会に対して鴉が「Never More」と言っているという演出になります。


ポール・ヴェルレーヌ
フランスでは必ず、アルチュール・ランボーとセットにして語られる詩人です。ヴェルレーヌランボーの二人の放浪はゴーギャンゴッホの共同生活以上に密接でそこにはヴェルレーヌからランボーに対する「愛」があったことは有名です。

 

サクラノ刻の放哉は面白いキャラクターで、彼は悪役でありながらも一種の強い魅力があります。そんな彼は時代が違えば、ランボーヴェルレーヌのように健一郎と放浪していたのかもしれません。


ヴェルレーヌゴーギャンゴッホ同様にランボーと最後は喧嘩別れに終わり拳銃でランボーの手を打ち抜きます。そのことが原因で彼は牢屋に入ります。恩田放哉も絵を燃やしたことで牢屋に入りますが、同性愛と合わせて境遇がとても似ていると感じています。彼がヴェルレーヌをもとにしているかは、すかぢ氏の頭を覗かないと分かりませんが、とても似ている共通項だと感じています。ついでにサクラノ詩から引き続き登場のオスカー・ワイルドも同性愛で逮捕されて牢に入れられています。

    
・Never More(2:13)
・涙(3:02)

 


⑦その他、引用した詩
・春日狂想 中原中也(2:56)
・永遠 アルチュール・ランボー(2:59)
・歩み ポール・ヴァレリー(2:47)
・十字架 ハルト・レーベン(1:27)


Ⅴ 音楽的性質の付加

サクラノ刻は各章のタイトルで音楽が使われています。
数は少ないですが、本作ではいくつかの楽曲を引用しています。


・(1:12)展覧会の絵 モデスト・ムソルグスキー
 展覧会の絵ムソルグスキーが友人のヴィクトル・ハルトマンの死後にその遺作展を歩く様子から作られています。ヴィクトル・ハルトマンの絵の傍らで死んだ圭の絵を見ている直哉がいます。

 

・(1:23)泥棒かささぎ ジョアキーノ・ロッシーニ
本編で登場するオペラ「泥棒かささぎ」の引用となります。


・(1:26)禿山の一夜 モデスト・ムソルグスキー
イワン・クパーラの前夜が美の呪われた宿命を体現していると恩田放哉は言います。聖ヨハネの前夜に妖女からの取引に応じ、世話になっている主人の子供を殺すという悪夢。妖女は離れた首から血をすすります。

 
・(1:27)月に憑かれたピエロ アルノルト・シェーンベルク
月は死の象徴であり、非日常の象徴であると捉えています。シェーンベルクは無調、十二音技法を作り上げており、現代音楽の様々な作曲家に影響を与えました。
月に憑かれたピエロは当初は、ラヴェルの「ステファヌ・マラルメの三つの詩」と同時に公演される予定でしたが、実現はしませんでした。今回は月に憑かれたピエロの中の「十字架」という詩を基に画面を作っています。詩人、画家が大衆により磔となり、血を流します。

 

・(2:56)ピタゴラスボエティウス
古代ギリシャ哲学者で音楽について言及したピタゴラス。その後、ボエティウスは更に音楽と哲学を関連付けました。
  
・(2:57-2:58)子供の情景 詩人は語る ロベルト・シューマン
本編では心鈴と寧の章で使われましたが、あえて最終部分で使っています。オーケストラの指揮者をMADで登場させていますが、オーケストラはあるものの、どちらかと言えば静かなピアノ曲と言うのがスタンダードです。曲集は子供の情景ですが、それは子供に姿を変えていた詩人本人です。その詩人が最後に今までのお話を語るというストーリーになっています。直哉、藍、稟の大人の姿と子供の姿が同時にこのオーケストラを見ています。
 

 

 

Ⅵ 哲学的性質の付加

 今回は自分なりに哲学要素を整理して作成しています。今回、重要となる哲学者はこの三人です。

 ①ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン
 ②ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
 ③マルティン・ハイデッカー

 


ヴィトゲンシュタイン
本編で出てくる「語りえぬものについては沈黙しなければならない」はヴィトゲンシュタインの哲学の柱の一つと認識しています。死、存在、それらは語ることが出来ない。語りえないものは神秘である。哲学の命題となっている死や存在を論理の外にあるものとして語りえぬものとしています。
今回は「美」が語りえるものなのかというものもテーマに含まれていると考えていますが、確かに「美」は語りえないものだと私は思います。無駄なお喋りは身体を濁らす、これもヴィトゲンシュタインの哲学からとっているのかなと思いながら本編を読んでいました。
   
また、ヴィトゲンシュタインの哲学として「永遠の相」という概念もあります。正確にはスピノザが唱えた考え方です。このあたりは勉強しながらなので間違ったことを言っているかもしれません。スピノザの言う「永遠」は時間的な区分が存在しないものです。あらゆる時間を超越した普遍的な神の視点で世界を見る事を永遠の相のもとに見る、と言っています。ヴィトゲンシュタインは「芸術作品とは、永遠の相の下に見られた対象である。そしてよい生とは、永遠の相のもとに見られた世界である」と表現しています。サクラノ刻で語られたショーヴェ洞窟の例などは過去の時間を超越して現在の我々に「美」を追体験させるというものでした。
つまり、芸術があらゆる時間を超越し神の視点で「美」を見ることが出来る手段であり、そこに神秘性を感じる事をよい生と言っているのかなと認識しました。
 

 

ヘーゲル
本編のヘーゲルで出てくる芸術終焉論は芸術を「象徴芸術」「古典芸術」「ロマン芸術」の三段階に分けています。象徴芸術はいわゆる、エジプト文明などのイメージ、スフィンクスとかファラオとかです。古典芸術は古代ギリシャ芸術を指しています。
いわゆるサモトラケのニケやミロのヴィーナスといった神の彫刻が主体です。最後のロマン芸術はいわゆるキリスト教を中心としたイコンや祭壇画などの芸術です。これらの芸術は全て神と一体化しています。スフィンクスは神ですし、ニケも神ですし、十字架に張り付けられるキリストも神の再現です。しかし、ヘーゲルの時代の芸術は既にこのような芸術とは離れたものになっていきます。フランドル絵画の肖像画などは神を表しているわけではありません。これをヘーゲルの芸術終焉論と呼んでいます。
ヘーゲルはこの三段階の芸術のうち古代ギリシャ芸術を最も評価していたそうです。同じく古代ギリシャを詩の題材としたヘルダーリンとも交友関係があり、ここにも詩と哲学の相関性が見えてくるように思います。

 


③ハイデッカー
ヘーゲルの芸術終焉論に対して、ゴッホの古靴やギリシャ神殿の例を挙げて、芸術を神とは別の方面でとらえようとしたのがハイデッカーです。それはヘーゲルの芸術終焉を否定し、芸術を延命させようとする行為だったとサクラノ刻でも語られています。
ヘーゲルの主張では、古靴を見て連想する重労働をしている農夫のイメージ、これが「世界」であるが、一方で直接重労働をしている労働者である「大地」は描かれていない。芸術は隠された明示されない「大地」を「世界」として開示する闘争だ…と言っています。

 

 


今回は上記の三哲学者を意識して下記の構成としています。

 

1番転調部(1:03ー1:04)
ヘーゲルの芸術終焉論、それを否定するハイデッカーの芸術の根源


恩田放哉のセリフ(1:06)
:「芸術はとうの昔に終焉しているよ」にて、古典芸術としての古代ギリシャを連想させるモナリザのアルカイック・スマイルを設置


1番サビ前(1:11)
ヴィトゲンシュタインの語りえぬものとして「美」は存在するとヘーゲル、ハイデッカーを否定


1番サビ(1:12)
:圭の絵を前に直哉は、語りえぬ「美」を示そうとする。以降は芸術を作品で語る


2:18以降:永遠の相のもとに見る世界をイメージ(直哉にとっての限界を超えた絵画)

 

 


Ⅶ 宗教的性質の付加

シラノ・ド・ベルジュラック
今回のサクラノ刻ではシラノ・ド・ベルジュラックを模した神(2:19)を登場させています。これはキリスト教や仏教における神ではなく、概念そのものとなります。
自作のMADでは過去に作品に沿った神を登場させています。

 

・終末思想の夜と幸福の向日葵畑 シラノ・ド・ベルジュラック(永遠の相の神)
・夏蝶のピノキオ 操り人形を操る仮面(運命論の神)
・不条理狂詩曲 アルベール・カミュ(不条理の神)
・Waltz for the End トーマス・アルバー・エジソン(人間という存在を見る神)

 

シラノ・ド・ベルジュラックは剣術化であり作家であり、哲学者、理学者でもありました。恐らくゲーテダ・ヴィンチのような万能型の天才だったのだと思います。

シラノのフォトコラージュについてはルイス・フロイスのジャバウォッキーがもとです。ルイス・フロイスはいくつかの言語を組み合わせたカバン語という独自言語を登場させているそうです。
(このあたりは鳩麦ゆうさんという方が大変分かりやすい動画を作成されているのでそれを見るといいかもしれません)
カバン語のように時計、向日葵、目、ピアノ、ペン、月を融合させた存在です。

このシラノ・ド・ベルジュラック素晴らしき日々のMADから登場させているシンボル的な存在であり、今回は永遠の相への導き手として入れています。


②仏教思想
ワンシーンですが、2:16に重々帝網のイメージを入れています。
重々帝網は帝釈天の宮殿を飾る網で網の結び目に球体の鏡が釣り下がっているそうです。鏡同士はお互いの世界を映し出し、それが世界の成り立ちであると。
これは因果交流電燈と近い概念と妄想しながらサクラノ刻を読み進めていました。

 


Ⅷ その他の特殊演出

①言語的なトランジション
1:03-1:04はヘーゲルの芸術終焉論およびハイデッカーの芸術の根源の知識があった場合に滑らかに繋がっているように見えます。
このように意味や言語を理解すれば滑らかに繋がるトランジションを設けています。

(1:03-1:04)芸術終焉論 → 芸術の根源


(1:55-1:56)ウルビーノのヴィーナス(マネのオランピアのオマージュ元)→オランピア


(2:11-2:15) 中原中也(愛する娘が無くなり春日狂想を作成)→NEVER MORE(大鴉は死んだ恋人を悼む男に「二度とない」と答える)→EVER MORE(「いつも、永遠に」と燕が言う。傍らに剥けた林檎の皮)→セザンヌ(林檎の静物画で普遍性を表現)


(3:02-3:04)ピアズリー(オスカー・ワイルドに認められサロメの挿絵を描く)→牢屋(オスカー・ワイルドは同性愛により逮捕される)→オスカー・ワイルド幸福の王子
→燕(幸福の王子に登場する)→夏目圭(燕は夏目圭の寓意)


②永遠の相の演出
圭と直哉が出会うシーンのインスピレーションは「フランケン・ふらん」という漫画からとっています。主人公のふらんは天才外科医なのですが、患者を治すために行う手術が非人道的。(芋虫の体に人の頭部を移植したり、二人の人間を半分ずつ繋げたりと…)しかし、ふらん自身は、ひたすらいい子で善意や彼女にとっての常識の範囲内で行動しているというシュールな漫画です。
今回の演出は最終話で、ふらんが潜水艇に閉じ込められた話がモチーフです。
事故で潜水艇に閉じ込められたふらんは救助を待つ間に眠ってしまうのですが、
その夢の中で今まで登場したキャラクターがカーテンコールとして全員出てくるというお話です。最も印象的なのが、最後にふらんがずっと会いたいと思っていたが、消息が分からない博士に夢の中で会えるというシーンでした。
とてもいいお話なので是非読んでいただきたい漫画です。

 


③健一郎の口元
2:28の健一郎の笑い顔は宮崎駿作品のルパンやコナン、トトロなどの笑い顔からとっています。この無邪気な笑い方が私自身好きで、健一郎はこんな笑い方をしていたんじゃないかと思いながら、作っていました。
関連はないですが、「君たちはどう生きるか」もシュールレアリスム的な要素が強く、芸術家には大うけだったそうです。
(NHKで正月中に村上隆さんの特番がありましたが、絶賛でした
あれもジョルジュ・デ・キリコやベックマンの死の島などもオマージュされているようです。

 

④ラストの肖像写真、肖像画一覧

以下、登場させてます。

 

哲学者(3:06)

ソクラテスプラトンアリストテレスピタゴラスヘラクレイトスボエティウスデカルトパスカルスピノザ、カント、ヘーゲル、キュルケゴール、マルクスフッサールニーチェフロイト、ハイデッカー、メルロポンティ、サルトルラッセ

 

楽家(3:12)

バッハ、ハイドンモーツァルトベートーヴェンロッシーニパガニーニメンデルスゾーンショパンシューマン、リスト、ワーグナー、サン・サーンス、ムソルグスキーチャイコフスキードビュッシーリヒャルト・シュトラウス、サティ、ラヴェルシェーンベルク

 

詩人(3:18)

ホメロスヴェルギリウス、ダンテ、ゲーテ、シラー、ヘルダーリンノヴァーリス、ポー、ディキンソン、ボードレールマラルメヴェルレーヌランボーホイットマンゲオルゲヴァレリー

 

画家(3:22)

ダヴィンチ、ミケランジェロラファエロゴヤ、ベラスケス、カラヴァッジョ、ティッツィアーノ、ルーベンスフラゴナール、アングル、ドラクロワクールベ、ミレー、マネ、ドガ、モネ、ルノワールベルト・モリゾ、モロー、ルドン、スーラ、セザンヌゴーギャンゴッホムンク、シーレ、マティスピカソ、ルソー、シャガールカンディンスキー、クレー

 

 

◆MADにおける象徴主義写実主義

本作についての解説は以上となりますが、最後にMADMAXの感想や現在のMADを少し絵画論で見ていくことで何かしらのヒントとなるかもしれないということで書き残しておきます。


現在のMADを見ていると19世紀の象徴主義写実主義の争いや
新古典主義ロマン主義の対立に似通っているように思います。

この象徴主義写実主義の争いというのが「目に見えない対象を描く」か「目に見える対象を正確に描く」かの派閥争いとなります。

画家のイメージで言えば、こんな感じです↓

 

象徴主義
リーダ モロー
メンバー ルドン、ムンククリムトゴーギャン

 

写実主義
リーダ クールベ
メンバー マネ、モネ、ルノワール

 

象徴主義はいわゆる「概念」を描きます。「死」だったり「神秘」だったり、「愛」、「運命」みたいなテーマです。象徴主義は目に見えないものを描くという性質上、表現主義やフォービスムにも影響を与えています。
モローの教え子だったマティスもルオーもフォビスムとして大成しましたし、
同様にシュトゥックの教え子のカンディンスキーとクレーは抽象表現主義として活躍しました。

 

一方の写実主義は、林檎とか風景とか、人など、目に見えるものを描く試みです。
印象派写実主義と言うのはどうなの?というのはありますが、思想の根底は目に見えるものの表現ということで共通しています。

 

現在のMADに当てはめてみると、象徴主義は元作品からテーマを読み取りそこからテーマや登場人物の感情などを作家として表現するMADと言えると思います。
一方で写実主義は元作品の内容を正確に再現するMADと置き換えることが出来ます。
この分類で今回のMADMAXを分けてみると以下の分類になります。(動画MAD除く、かつ独断と偏見による分類)

 

象徴主義
【MAD】 Sleep tight, sweetheart 【まちカドまぞく】
【MAD】 ЇИḟƩɌηϴ_ 【魔女の家】
【MAD】 dirty girls 【化物語
【MAD】 迷星叫 【BanG MAD】 西宮硝子 / ヰド 【聲の形
【MAD】最後のさよならを告げるよ。【デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション
【MAD】 成層圏と追憶 【アオのハコ】
【MAD】 虫出しの雷とほんとうのさいわい 【花は咲く、修羅の如く】
【MAD】 世界限界の向日葵と永劫回帰の櫻 【サクラノ刻】

 

写実主義
【MAD】 one of a kind 【蒼の彼方のフォーリズム
【MAD】 辿ろう、2人の記憶を 【Summer Pockets
【MAD】 星が生まれる瞬間に 【FateGrand Order 】
【MAD】 FREEDOM 【チェンソーマン】
【MAD】 残光 【創作彼女の恋愛公式】
【MAD】群青の火輪【しらないこと研究会】
【MAD】 約束と初めての×× 【きみが死ぬまで恋をしたい】
【MAD】 legend 【SHIORI EXPERIENCE~ジミなわたしとヘンなおじさん~】
【MAD】 幸福な終わりの物語 【サクラノ刻】


MADにおける象徴主義はMVやPV、映像作家からヒントを得ているパターンが多いのかなと思います。
特徴としては「綺麗な絵<面白い絵」「元ソースの再現<作家の解釈」
自分なりに考えて寓意を込めたオブジェクトを使い、キャラクターの心情を表現することに重きを置く傾向があります。難解さは罪ではなく、それが深みや個性に繋がるという思想でそこに作家の個性が求められます。

 

MADにおける写実主義は漫画MAD、漫画PVやアニメOP、ゲームOPからヒントを得ているパターンが多いのかなと思います。
特徴としては「綺麗な絵>面白い絵」「元ソースの再現>作家の解釈」
アニメ同様に滑らかなアニメーションはどうすれば出来るのか、水飛沫や波、風、日の光、炎などのエフェクトはどうか、光はどのようにキャラクターに当たっているか、
デザインは綺麗に整っているか、など現実の物語をいかに綺麗に再現出来るかを重視します。分かりやすく物語を伝え、万人に分かる表現を重視する思想です。
この思想の場合は作家独自の解釈を加えた通常の技法を逸脱した表現は、なかなか理解されにくかったりします。

 

恐らく、多くのMAD作者は自分の主義と違うものに当たった場合に、
「凄い!でも、自分の作りたいものとはちょっと違う」という感覚を感じ取っているはずです。自分がどんな思想でMADを作っているかを整理して、スタンスを決めてMADを作ることでより自分の作りたいものが明確化され、良い表現になると私は信じています。

 

また、この二つの主義に優劣は基本的にはないと考えています。
モネとゴーギャンのどっちが偉大か、とかクールベとモローはどっちが人気があるかは意味のない議論です。見た人が決めることです。
面白いのは、同じ主義同士がMADMAXで当たると技法対決になって何となく勝敗が見えやすい一方で、主義が違うMADが当たると票が割れて非常に面白い戦いになったりします。それは見た人が象徴主義に惹かれるか、写実主義に惹かれるかが全く見えないからです。

100年以上前の絵画の考え方の違いが今もMADの世界で当てはめられることには驚きます。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がありますが、過去の歴史を思想の下地にして、映像に取り入れることでより面白く、評価され、心を打つ映像が作れると思います。

 

ゴーギャンは「芸術は、盗作であるか革命であるか、そのいずれかだ」と言ったそうです。我々も出来れば革命側として生きていきたいものです。